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Home>Journey & Photo>インド 悉達多との対話 マレーシアの旅 | ビルマの旅 | インドの旅 

 インド 悉達多に会いたくて 1999 Nov./11~24 #Ⅳ

#Ⅰ 1日目 2日目 3日目 | #Ⅱ 4日目 5日目 6日目 | #Ⅲ 7日目 8日目 9日目 | #Ⅳ 10日目 11日目 12日目 13日目 14日目
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10日目 スジャータ村の休息

 
11月20日 土曜日

 午前3時30分起床。オートリキシャーでワーラーナシー鉄道駅に向かい、5時発のカルカッタ行きに乗車。8時40分、ガヤ(Gaya)駅に到着。ガヤから目的地ブッダガヤまでは15キロほどある。リンタクから相乗りのオートリキシャーを乗り継いでブッダガヤに入り、ネーランジャー川(現ファルグ川)沿いのDeep Gest Houseに宿を取った。

 たまっていた洗濯物をホテルに頼み、400m先の大菩薩寺(マハー・ボーディ寺)に向う。

 大菩薩寺前は、巡礼者や観光客のための店が立ち並んだ門前街になっている。そこにあるレストランで朝食を取ったあと、寺院の中に入っていく。

 様々な国籍・民族の仏教徒が訪れて、各々の様式で祈りを捧げている。チベット人も多く、長い時間五体投地の祈りを捧げている。中央の煉瓦造り、高さ52メーターの仏塔の周囲では、数多くの欧米人が、座禅を組み瞑想に耽っているもいる。

 仏塔の裏手の一角に大きな菩提樹があり、枝を広げ風通しの良い日陰を作っている。菩提樹の下に金剛座がある。釈尊が悟りを開いたとされる場所だ。巡礼行脚の人々や僧侶達が、代わる代わる礼拝を捧げている。金剛座は赤色の敷物と、金色のモールで飾られ、花や果物が供えられている。

 釈尊は、前正覚山で6年に及ぶ修行を重ねたあと山を下り、ネーランジャー川沿いの村娘スジャータに乳粥の布施を受けて体力を戻し、川を渡ってこの菩提樹の元に至り、幾日もの間結跏趺坐して瞑想を続けた。やがて2400年前のある日の黎明、悟りは訪れて正覚者「ブッダ」となった。

 私は菩提樹の日陰の隅で胡坐を組んで座り、菩提樹の木の葉を通して降り注ぐ明るい青空を見ながら、しばらくの時間、悉達多と対話していた。
 マハー・ボーディ寺を後にしてネーランジャー川(現ファルグ川)の橋を渡り、スジャータの村に向かう。ネーランジャー川が作り出した平原の左前方に、釈尊が自ら誰よりも過酷な修行を続けたという、前正覚山の荒く唐突な高まりが見えている。

 橋を渡り始めたとき、川の中州には砂の小山あり、たくさんの干し物が砂の上に広げられているのが見えていた。『砂の上に広げたのでは、洗濯物が砂だらけにならないのかなぁ』と余計な心配をしながら橋を進んで近づいて行くと、丈の短い特徴的なジーンズがあるのに気が付いた。「もしや‥‥‥俺のだ!」 ジーンズだけでなく、シャツやTシャツ、下着もあるではないか。風が強く、洗濯物は黄色い砂にまぶされている。やれやれ、まあ汗は落ちているだろう、この程度を気に病んでたらインドの旅はできない。

 スジャータの村は訪れる人も少ない静かな農村だった。私は村の中ほどまで入り、広場のような場所にある切り株に腰を下ろした。近くの家の瓦屋根はたわんで波打ち、土壁一面に人の手で練られ貼り付けられた牛糞が広げられている。牛糞の黒い壁を背景に、白い痩せた牛が繋がれている。時折村の住人が、私の存在を気にも留めず目の前を過ぎていく。ぼんやりとここで小一時間ほど過ごした。旅の中のこんな時間が好きだ。

 しばらくして、またネーランジャー川の長い橋を渡りホテルに戻って行った。私の服はまだ砂風にさらされていた。

 夕方、宿の人に近くに良いレストランは無いかと聞くと、向かいの食堂を進められた。その店で野菜主体の料理を頼んだが、小屋の中は暗く料理も真っ黒、胡椒が強くて何を食べているかわからない。闇鍋をつついているような夕食になってしまった。

 食事から戻ると洗濯物が届いていた。受け取ったジーンズのポケットを引き出すと、ひと摘みほどの黄色い砂が落ちてきた。
   
     

11日目 夢の一区切り

 
11月21日 日曜日

 朝4時起床、ブッダガヤを離れる。

 二十歳のころ、船でアメリカに渡った時の最終目的地はインドだった。マハトマ・ガンジーの活躍した国、そして仏教発祥地。私は仏教徒という訳ではないが、この世のとらえ方として、釈尊の示す道に深い敬意を抱いている。ブッダガヤ訪問で、青春の夢にようやく一区切りできたという安堵感と同時に、心の奥に寂しさを感じていた。

 まだ薄暗い道をオートリキシャーでガヤの駅に向かう。風通しの良いオートリキシャーに朝の冷たい風が吹きぬける。プリースの上にウィンドブレーカーを重ねてもまだ寒い。胃も痛む。夕食の闇鍋のせいなのか、無理して残さず食べてしまった。

 列車はほぼ定刻に発車。イスラム建築の墓廟タージマハールのあるアーグラーフォート(Agrafort)駅まで13時間の移動だ。

 胃が痛くて何も食べる気になれず、午前中は上段のベッドに横になっていた。昼頃、途中駅で人が入れ替わったのをきっかけに下のベッドに移った。午後になりようやくチャーイとコロッケのサンドイッチ、トマトスープの食事をとれる様になったが、体調は戻らず鼻水も出始めた。どうやら風邪をひいたらしい。

 夕方、上のベッドに移り寝ていると、初老の夫婦と娘二人の上品そうな4人の家族が乗車してきて下の席に着いた。デリーに帰るところだと言う。

 途中、駅のプラットホームに進入し始めたとき、アーグラーフォート駅はまだ先だろうと思い込みのんびり座っていたら、家族の19歳の長女が「アーグラーフォート駅だよ、降りなくていいの」と教えてくれた。危うく乗り過ごすところだ。

 駅からオートリキシャーで、ガイドブックで見ておいたタージマハールホテルに行ったが空き部屋はなく、車夫の勧めるアーティヒ(Atihi)ホテルに行ってみる。ホテルは少し古くて料金は高いが、部屋は広々としていてバスタブ付きの部屋だった。風邪もひいていたし、インドに来て初めてのバスタブ付きに惹かれ、ここに泊まることにした。
   
     

12日目 心に残る少年のこと

     
11月22日 月曜日
 喉は痛いし鼻水も止まらず熱もあるようだ。午前中はホテルで休むことにした。
 昼からサイクルリクシャーでアーグラー城などを巡る。リキシャーの運転手は40歳。3人の息子がいて上は17歳でカレッジの学生だという。半日案内してもらい75ルピー。お土産屋からのコミッション2件で40ルピー。トータル105ルピー。午前中の稼ぎを入れても、200ルピーにならないだろう。彼らにとって100ルピーは決して僅かなお金ではないはずだ。私はといえば、たかがお土産で2000ルピー近くも使った。

 カジュラーホー以来、カルー少年のことが引っかかっている。
 必要な学費は、年間3000ルピー(7200円)と言っていた。ここでのアーティヒホテルは一泊1180ルビーで二泊の予定だ。ヴェナーラシー(Varanasi)から飛行機でガヤ(Gaya)まで行っていれば、エコノミーでも7000ルピー。予約が取れず列車にしたが、その差額だけでもゆうに余る。

 少年の話しに多少の真実があったとして、他の旅行者から二重三重に取ろうとするだろう。すでに同じことを、観光客に会うたびに繰り返しているとも思う。しかし「それでもいいじゃないか」という心の声に咎められ続けている。
     
     

13日目 早朝のタージマハール

     
11月23日 火曜日

 風邪は良くなってきた。
 昨日頼んでおいた同じおじさんのサイクルリクシャーで、タージマハール向かう。7時ちょうど、朝日が昇り始めた。

 タージマハールは朝霧で淡くつつまれていた。境内をゆっくりと移動し、角度を変えてタージマハールを眺める。日が高くなるのにつれて霧は少しづつ薄り、墓廟は黄色味を帯びた柔らかな姿からその壁面を白く明るく輝かせ、澄み始めた青空とのコントラストを増していく。

 早朝の時間帯は入場料が高いので、観光客はまだ少なく境内は静かだ。タージマハールのテラスに上ると、眼の前にヤムナー川の河原が遥かに広がっている。左手2キロほどの彼方に、昨日訪れた茶色く厳つい造りのアーグラーの要塞が望める。

 タージマハールは17世紀、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンがその王妃ムムターズ・マハルの死を悲しみ、霊を慰めるために建てられた廟墓だ。晩年シャー・ジャハーンは実の息子によりアーグラー砦の塔内、このタージマハールが望める一室に幽閉され、死後王妃の隣に葬られた。どのような物語があったのだろう。いま、タージマハールとアーグラー砦の間の薄霧りが漂う河原では人々が朝の沐浴をし、牛の群れてが草を食んでいる。

 10時ごろホテルに戻り12時にチェックアウト、アグラフォート駅から旅の最終訪問地デリーに向かう。
Taj Mahal
Taj Mahal Taj Mahal Taj Mahal
   
 デリーに着くと、駅前にはお上りさん目当ての目つきの鋭いリキシャマン達がたむろしている。彼らを振り切って、近くにある政府の公社と書かれたインフォメーションに行ってみる。50歳前後の係員がわざわざ私をブースの中に招き入れた。彼は料金の高いホテルを示し、ここが他より10倍良いと強く勧めてくる。こいつもなんだか胡散臭いと引っかかったが、公社の係員の言うことなので、とにかく見てから決めようと思いオートリキシャーで行ってみることにした。すると、どこからともなく付馬の様な男が自転車で付いてきた。多分リベートの受け取り役なのだろう。

 着いた所は街の中心部にあり、はでな装飾でごてごてした造りのホテルだった。女性のマネージャーに部屋を見たてから決めたいというと、実際に泊る部屋はここから離れた場所の系列ホテルで、部屋はここと同じだからこのモデルルーム見て決めろと言う。私は実際の部屋を見なければ決めないと伝え、このホテルのボーイとともにまたリキシャーで移動するはめになった。

 次に着いたのは入口が狭い建物だった。2階にこぎれいなレストランがあったが、案内された部屋は窓もなくとても1500ルピーに見合うものではなかった。あきれて「こんな部屋はNo goodだ。」と断ると、それならリキシャー代を支払えと言ってきた。少し怖かったが腹が立った勢いもあり「時間の無駄をさせられたし、そんな義務はないと。」突っぱねてホテルを出てくると、ホテルの男が二人なにか言いながら追いかけてくる。幸い道に出てくると、リキシャーが通りかかったので急いで乗り込み出発してもらった。

 ガイドブックに有ったYMCAを指定してそこに向かうあいだ、リキシャーの運転手に「何かあったのか」と尋ねられて事情を話すと、公共の連中は地位を利用して、リベートを取ることだけを考えている奴らばかりだと嘆いていた。

 YMCAは満室だったが、近くのYWCAを紹介されてそこに宿を取ることが出来た。まだ体調が戻りきらず、夕食もあまり食べれなかった。
     

14日目 ブックエンドの調べ

     
11月24日 水曜日

 インドの旅の最終日。時間も少なく、デリーで特に行ってみたい場所も無かったので、観光バスに乗ってみることにした。

 バスは空いていて、アメリカ人カップル、中国系カナダ人夫婦、ウガンダから来た若い女性と私の計6人だった。みな気さくに話しかけてくれる。それぞれ国の異なる彼らと話すは楽しかったが、観光バスで巡るデリーはすでに旅ではなかった。

 旅は目的地よりもそれらをつなぐ線にある。そこに至る過程で知る発見や経験、異境の人々との出会い、困ったことやハプニングが旅の本質であり、目的地はその線を作るためにあるようなものだ。終着地デリーに着いて、旅はほとんど終わっているようだった。
 空港に行くまでにはまだ時間があったので、期待のないまま国立博物館に寄ってみた。

 博物館に入ると一階に劇場ホールがあり、中からシタールの音色が漏れている。調べに惹かれ劇場に入っていくと、若者たちが民族音楽のリハーサルをしている。シタール、太鼓、横笛、その他のインド伝統楽器の他に、エレキギターやサキソフォーンも交えている。サックスの奏者がグループのリーダーらしい。インド音楽独特の掛け合いを細部にわたって打ち合わせながら演奏している。

 私は客席の最後部に隠れるように座り、その音楽空間に浸りながらこの旅のいくつものシーンを夢のように思い浮かべていた。
 彼らの調べがブックエンドのように旅を締めくくってくれた。



「インド・悉達多に会いたくて」完







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