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 Journey Junkieの旅

 プロローグ▼   目次▼
ベナラシー ガートの夕日
Sunsets of Ganges Ghat
 

プロローグ Born as a Journey Junkie

 私は幼いころから旅が好きだった。
 
 11歳の時にTV放映が始まった「兼高かおる世界の旅」に影響され、いつか世界を旅して見てみたいと思い続けていた。大学3年の終りごろ、皆が就職活動を始める頃になり、世界のことは何も知らないまま社会に出ることに不安と焦りに悩まされた。我が家は比較的裕福な家庭だったが、当時はまだ子供に海外体験をさせられる家庭はまれだった。$1=360円の固定為替の時代だ。そこで1年間休学し、アルバイトをして資金を蓄えてアメリカに渡ろうと思い、親に許可を願い出た。私の父親は保守的で典型的なおやじ殿下、自分の思い通りに子供が行動しないと癇癪を起し、また勘当されるかとも思っていたが「自分でできるなら、それも良い体験だろう。」と意外にすぐ認めてくれた。

 1年数か月間働き(バイト代は1日1400円、雇い主の好意で当時の平均よりかなり高かった。)、また兄からも借りるなどして(未返済)渡米の資金を作り、東海汽船の移民船アルゼンチナマルでアメリカに渡った。ロス(Los Angeles)の港に着いた時、帰りの航空券は持っていたが所持金は500ドル、2か月の滞在も危うい額だ。サンフランシスコで知り合った先輩の勧めで、一般家庭を週一回掃除して回るハウスクリーナーの仕事を始めることができた。アルバイト代は一日20~25ドル、日本の6倍以上の額を得られた。渡米から一年と3か月で金を貯め、いよいよヨーロッパに渡りヒッチハイクでインドを目指す旅を始めようと、まずイギリスまでの航空券を入手した。だが出発の1週間前になって腹部に激痛を覚え、世界の旅を断念せざるを得なくなった。すでに一度延長したビザの期限も切れるので、諦めて一端日本に戻りることにした。尿管結石ですぐに入院手術すことになった。結石は大豆大・塩の結晶のようで、無理をしていたら腎臓を1つ無くしたところだと医者に言われた。

 当時は若く、いつでもすぐにアメリカに戻るか、直接東南アジア経由でインドに行けるだろうと甘い夢想を抱いていた。そのあとすぐ、サンフランシスコで出会った今の妻と結婚し、一年で子供も生まれた。世界の旅はいきなり遠のいた。

 夢をあきらめきれずいろいろ儲かりそうな仕事に就いてみたが、家族を抱えて長い期間の海外バックパッキングなどできるはずも無く、かえって家庭生活は困窮した。困り果てていたときに、アメリカで知り合った妻の友人が人材斡旋の会社を紹介してくれ、その会社を通じて外資系の日本ポラロイドに就職することができた。

 日本ポラロイドはインスタントカメラのテレビ広告で当時は有名な会社だった。その時代、日本はモーレツ社員という人種が猖獗を極め、朝9時から夜の9時10時、夜明かしも珍しくない働き過ぎの時代だ。私もそれまでは、職場を出るのは10時11時、終電ギリギリも珍しくなかった。ところがポラロイドは別世界、定刻の6時を過ぎると各部屋の電気が消され始める。営業の部署でさえ同じだ。はじめは強い違和感を覚えたが、数か月もすると外資系とはそんなものかと思うようになった。与えられた休暇日数を皆きっちり消化する。上司でさえ、連続1週間に休暇を取ったりする。

 そこで考えた。昼飯とタバコ代で月に3万円、当時としては多めの小遣いを家計から得ていたが、タバコをやめ、昼飯は近くの店の菓子パンなどで済ませれば一日300円で収まりそう。そうすれば月に2万円は残せるし、時折会社が出してくれるセールスインセンティブをへそくれば、1年で30万円以上貯められる。東南アジアを格安航空券で渡り、現地のゲストハウスなどを利用すれば、一人でなら1週間15~20万円で済ませられるので、年間1~2回の旅ができるではないか。

 毎日昼食は自分の机でコーヒーと菓子パン、年に2回も1週間(土日から土日の9日間)連続で休むのはいくら外資系でも変わり者と思われ、評価に影響も有ったと思うが、旅への渇望はそれを超えていた。

 そんな旅の記録と、それらの旅から気づかされ教えられた命の意味を書き残しておきたい。

 ◆◆ 松栢庵 ◆◆
 

目次


マレーシア東海岸の旅   パガンの仏塔 ビルマ(ミャンマー)  
まだ観光客があまり行かない東海岸をローカルバスで旅をした。運よく大海亀にも出会え、海沿いのカンポン(小さな村)とそこに住む物静かなマレー人や中華系の商人、おおくの人の親切に触れることのできた。
軍事政権下のビルマ(現ミャンマー)。人種、政治、経済など、異国を感じる旅だった。タイからビルマに入った翌日、ラングーン駅の陸橋で憲兵に連行されたあたりから、意識は旅の奥に沈み始めた。
☆New☆彡
    インドへの旅 悉達多・ガンジーに会いたくて
30年来の青春のBucket List(生涯リスト)。脱サラ1年目に、今しかないとインドに向かった。今までの旅で教えられたことを、一つ一つ再確認する旅になった。



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