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 パガンの仏塔 ビルマ(ミャンマー)1986 Jul/6~12 #T

#T 1日目  2日目  2日目  3日目    |    #U 4日目  5日目    |    #V 6日目  7日目
     

1日目 

 1986年7月6日 日曜日
 マレーシアから二年、新しい旅に出る。
 日本政府が危険地域としてビルマへの一般の渡航を仰えているので、旅の情報は手に入りにくくようやく出発までこぎつけた。ビルマ直行便はなくバンコックで一泊して乗り継ぎだ。

 タイ・バンコックのドムアン空港からダウンタウンへ向う道には、大型の観光バスからサビだらけの路線バス、荷台を改造した大小様々な乗り合いトラック、合間を縫って走り回る小さな三輪サムロ、おびただしい数のオートバイやスクーターが密集して走る。それらのまき上げる土埃、排気ガス、重油の臭い、マフラーを外したエンジンの騒音、その怒涛の喧噪を東南アジア強烈な暑さが覆い尽くしている。私はなぜか嬉しくなってきた。
 
 

2日目-1 バンコック

     
 7月7日月曜日
 朝7時20分、空は快晴。
 シャワーを浴びてまずビルマ・ヤンゴンまでの航空券を購入できそうなオフィースを捜しに出かける。
「バンコックとラングーン間の便の予約は取っておいたけど、チケットは現地で買った方が安いよ。」と旅行社の知人が教えてくれた。どこで買うのか聞いてない。当てずっぽうに街を歩いてみると、昨夜夕食をしたSILOM VILLAの向かい側の建物の窓にタイ航空のマークをに貼っているオフィースがあり、そこで日本で買うより2万円以上安く手に入った。

 ヤンゴン行きフライトまで時間があり、王宮などバンコック街歩き。その後小さな三輪タクシーにカタカタ揺られ空港を目指す。道路を埋めるおびただしい数と種類の車、充満するむきだしのエンジン音と、それらが吐き出す青紫の熱い排気ガス、それらの喧騒が不思議と快い。
   
 

2日目-2 ビルマ

 ビルマは予想を超えていた.

 昨日、バンコックの空港に降りる時天気は良く、雨季と言っても大した事はない、これが雨季なら日本の8月もまさしく雨季だ、とたかをくくっていたが、飛行機がテネセリム山脈を超える頃から、下界はすっかり分厚い雲に覆われてしまった。やがて飛行機は徐々に高度を下げて、雲海に沈んで行く。地上はどんな様子だろう。暗い雲の中をいつまでも飛行する。水滴が窓を走る。時間を長く感じながら灰色の窓を見詰めていた。

 突然雲が切れて、地上が現われ始めた。そこに見たのはまさしく大イラワジデルタの雨季の姿だ。か細い畔に仕切られた暗いベージュ色の無数の泥田が見渡す限りに広がっている。幾条もの河川は人間の営みを顧みること無く、畔の境界をまるで無視してのたうっている。泥の海だ。その泥海に浮かぶわずかな土地に身を寄せ合って、おそらくは高床式の小さな集落が点在している。低い霧の層が、そこかしこに泥田を覆って漂っていた。やがて飛行機ほミンガラドン空港に下り立った。
 
 
 イラワジデルタの風景に異国を見て心に覚悟を決めてタラップを降りたが、入国手続きで早々にその覚悟を為された。入国管理の手続きに30分ほど並ばされ、カスタマーチェクに40分待たされ、そのあとドル交換するだけにさらに2時間以上も掛かってしまった。これがビルマ式社会主義というものか。官燎主義的でなんとも非能率だ。待たされ疲れいらいらし、そんなつまらぬ第一印象を持ってしまった。

 空港内には若くしたたかな商人達が徘徊していた。彼等は旅行者が免税店で買って持ち込んだウイスキーや煙草を、ビルマ貨幣・チャットで買い上げていく。非合法に違いない。空港の係官を気にして目を配っている。その中のひとりは15・6才のまだ少年だが、利発そうで目に力が有り、既に男らしい頼もしさを身につけている。慣れた旅行者は彼等が歓迎する銘柄、ウイスキーならジョニーウォーカー、タバコはスリーファイブ等々を用意していて現金チャットに換えているいる。

 
 
 夜9時を過ぎ、ようやくダウンタウンのストランドホテルに着いた。ホテルは満員で部屋が無い。まいった。フロントのおにばさんが、他のホテルに電話をして部屋を捜してくれた。ホテルをあぶれた他の人達、アメリカ人・カナダ人・スイス人のおじいちゃんおばあちゃんの四人連れとタクシーに相乗してタマダホテルヘ。そこは植民地時代の名残りを感じさせる、趣あるこぎれいなホテルだった。

 まだ夕食を摂っていないので、部屋に荷物を置いて外に出た。何か今までと違う。バンコックや2年前のクアラルンプールとくらべて活気が少ない。でもそれだけでは無いようだ。何だろう。人の多そうな所へ向かって歩くいていく。皆、珍しそうに異邦人の私を見ているが、誰も話し掛けてこようとはしない。

 レストランをみつけて入る。焼き飯風の料理8チャット。ヤミレートで50円弱。店を手伝っている10才ぐらいの子供が目の前に座り、好奇に満ちた目で私の食事をずっと見ている。この少年を含め、ほとんどの男達はロンジーを腰に巻いている。柄が随分地味だ。そのせいもあるのだろう、タイやマレーシアと比べて全てが薄汚れた感じを受ける。あれっ、そうか皆手で食べている。店のおじさんが気を利かせ、私にはスプーンとフォークを付けてくれていたんだ。この店は明るくしているが、外の露店はほとんど照明を点灯していない。

 判ってきた。腰に巻いたロンジン、照明の暗さ、露天に並べられた品の驚くほどのつつましさ。インドに近い民族の顔立ち。真っ暗な道を、スモールライトだけで走る古い車両。そんなこんなが皆違う。そうだここは異国だ、異国に来ているんだと思い始めた。
   
     

3日目

 
 7月8日、火曜
 今は夕方の6時。太陽は、その激しい仕打ちにようやく飽きて、西の雲間に身をかくした。 参った。頭はガンガンするし腹も痛い。甘く見ていた。帽子も被らずに真っ昼間に長時間歩き回るなんて・・・。

 今朝9時、旅のアウトラインを決めておこうと思い、市街の中心、スーレーパゴダのすぐ前に在るビルマの旅行公社のツーリストバーマを訪ねた。明日の朝出発、マンダレー行き列車の乗車券は買えだけれど、パガン行きのバスも、バガンからラングーンへ戻る飛行機やホテルの予約も、全ては現地のツーリストバーマでなければできないという。冗談じゃ無い、ビザを申請するとき、詳細な旅行日程表を提出させられたけど、こんな状況だったら、正確な日程なんて、立てられる訳ないじゃないかっ!。昨夜の通関手続きにしたって、書類が揃っているかどうかの検査で、実質的なチェックはなにもできていない。時間ばかり掛けて何の為だ。人々は素朴で慎み深く、この国を好きになれそうに思うけど、 この国はどうなっているんだ。

 ・・・だめだ、書くと文句ばかりになる。日射病か、あるいは風邪かな。飯も全然旨くない。兵隊に連行されたり面白いことがあったのに‥。
 
 
 休暇は勝手に延ばせないし、日本への飛行機の予約を取ってある、土曜日の昼までにはラングーンに戻らなければならない。とりあえず、朝6時発マンダレー行きの切符を買い、あとのことはマーンダレーに着いてから考えよう。 

 ツーリストバーマを出てその足で、目の前のスーレーパコダに寄ってみた。中央に大きく聳える金色の仏塔。その四方に配された白い大理石の仏像。原色のシンプルな線で描かれているくっきりとした顔立ち。前に置かれたガラス張りの賃銭箱の中に、あからさまに見えている沢山の紙幣。寺院内を装飾しているキラキラと光る鏡のモザイク。それ等は慣れない私に、ちょっとしたカルチャーショックだった。周囲に設営された仏陀の生涯を物語るらしい展示物も、縁日の小屋掛の様に感じてしまう。この国のことをまだ何も分かっていない、外国人の軽薄な評価をよそに、人々は静かに、熱心に祈りを捧げている。昼前、すでに太陽は力を示し始めている。 
 
 
 スーレーバゴダからホテルへ歩いて戻る途中、ラングーン駅を越える陸橋にさしかかると、駅の構内に骨董品のような古い列車が停まっているのが見えている。柵に乗り出して写真に撮ろうとしていたら、後ろから肩をたたかれた。なんだ、と振り返るとMPと書かれたヘルメットを被る、色の浅黒く体格の良い兵隊だった。

 やばい、何かが起きそうだ。そのMPは私の腕を掴んで、少し先にいた若くて賢そうな私服の将校らしき人の所へ連行した。駅は一種の軍事施設であり、写真撮影は禁止されていると将校は言っている。
「俺はまだ一枚も撮ってないよ、撮る前に彼に捕まったのだ。」
「なんの為に写真を写そうとしていたのか。」
「鉄道が好きだからだよ。」
 
 会社から借りてきたカメラだ、没収されたらどうしよう。なるべく笑顔を絶やさないようにしていたが、内心必死。数分後にようやく納得してくれたような態度になってきたのだが、話が一段落すると、今度は部下らしい男にホテルと反対方向の駅の方へ連れていかれる。そいつは英語は通じない。しかしときどき笑顔をみせたり日傘を差し掛けてくれたり、態度は偉く親切だ。だったら訳も分からず連行することないではないか。いったい今何か起こっているのだ!

 駅まで来ると、また制服の兵隊に引き渡され、構内の薄暗い一室に引き据えられた。
 部屋は広く、奥のカウンターでは数人の兵隊が立ち働いている。その正面の古びて重そうな木の机に、いかつい体形の将校が座って、厳しい顔付きで書類をめくっている。背後にある鉄格子の入った窓の明りが逆光になって、彼の脂ぎった顔の輪郭が光る。そのすぐ前のベンチに引き据えられた私に、将校は上目使いに鋭い一瞥をよこす。まさに植民地時代を描いた冒険映画のシーンにでてきそうな雰囲気だ。何か始まるのだろうと私は身構えた。しかし彼はまた視線を書類の上に戻し、そのまま自分の仕事を続けている。

 部屋には連れてこられた人達が他にも何人もいて、幅の狭く堅いベンチに窮屈に座らされている。ただでさえ暑いのに、ここは埃っぽく空気が淀んで息苦しい。煙草の青い煙が重くゆっくりと漂っている。暑さと焦燥とで、服にべっとりと汗がしみ出す。将校に状況を説明して貰おうとしたが、何を言っても通じない。ただ「lhour・lhour」と言うばかり。一時間たったらそのあとどうなるの。

 なさけない面持ちで座っていると、すぐ前のベンチにいた初老のビルマ人が英語で話し掛けてくれた。その人の隣に移り先程からの顛末を説明すると、彼は将校に事情を聞いてくれた。

 こういう事だった。
 カメラの一件はどうやら許されたようだ。ただ、これからビルマのVIPらしき人間が駅に着くところで警戒を厳しくしている。そのVIPがいなくなるまで、余計な人間、怪しげな者を一つ所へ押し込んでいるという。そういえばえらく沢山MPや兵隊が道に立っていた。「後30分ぐらいで了わるから、そうすれば自由の身になれるよ。」助かった!
ラングーン国営博物館

 
 
  あっけない感じで釈放されたあと一旦ホテルに戻り、タクシーを頼んで有名なシェイダゴンパゴダヘ。10チャットを払いタクシーを降りると、朝見たスーレーパゴダを遥かに凌ぐ大伽藍がそびえていた。山門で靴を脱ぎ裸足になって屋根で覆われた参道を登って行く。参道の両側には、金色や朱色で飾られたとりどりの供え物を並べた店、石造りの仏像を売っている店、お土産や絵葉書などを売っている店などが並んでいる。5・6才の幼い児が二コニコしながらまとわりついてきた。

 薄暗い参道をぬけると突然、巨大なシェイダゴンパゴダが目前に迫った。仏塔は真昼の太陽の下で眩しく、金色の光を照り返しいる。石畳が焼けて足の裏が火傷しそうだ。
ラングーン シェイダゴンパゴダ シェイダゴンパゴダ境内 ラングーン シェイダゴンパゴダ境内
 
 
 小型トラックの荷台を改造したタクシーを拾ってロイヤル湖へ。体が本能的に水辺を求めている。近くのハイスクールの子供達が水遊びに興じていた。数人がそばに来て話し掛けてくる。片言の日本語を話す少年もいた。

 湖は豊かな緑に囲まれて、銀色に輝く漣の彼方に、今観て来たシェイダゴッパゴダの76カラットのダイアモンドを納めるという尖塔が望める。

 さっきから少しずつ頭が痛み出してきた。体も熱っぽい。疲れから風邪でも引いてしまったのかとその時は思ったが、これが熱中症の始まりだった。

 ホテルに戻ろうと通りに出たところで二人の女の子に出会った。粗末な皿の上に四半分に切った干からび始めたパイナップルと、小さなナイフを載せて売り歩いている。服は薄汚れているし髪の毛もぼさぼさで、余り風呂にも入っている様子も無いが、目は明るく輝き笑顔が可愛らしい。パイナップルを買ってあげるといつまでも後をついて来る。チップに1チャトずつあげたら、もっとせびろうと白々しい身振りでお腹がすいていると訴える。ふざけるなと怒ってみせてもキャッキャッ言って笑っている。11才か12才位、こんなに小さくてもなかなかしたたかだ。

 ホテルに帰り着く頃には、頭痛は益々ひどくなった。夕方マーケットに行く予定にしていたが、とてもそんな気になれない。食欲も無い。明日は4時半に起きなければならないのに、眠りは浅かった。
 


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