使命‥心及ぶ限りの命のため、わたしにできる命の使い方。 Me Can Do Something ‥ | ご質問・ご意見はこちら |
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Malyasia マレーシア東海岸から 1984 Oug/10~20 |
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1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 6日目 7日目 8日目 9日目 | |
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1984年8月10日金曜 東南アジア一人旅。できるだけ人々のありのままの暮らしに触れたくて、観光客の少ない東海岸をメインに選び旅を始める。 18時、シンガポール航空11便。定刻より、30分遅れて出発。機内サービスは快適だ。乗客には日本人が多い。日本時間24時30分 シンガポール着 現地時間23時30分、空港内3階見学ラウンジのベンチで仮眠、近くで中国人の若者が寝ていた。 |
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8月11日土曜 7時30分SQ102便、クアラルンプールへ出発。日本人は少なくなっている。 8時過ぎ着。東海岸の街・クアンタンに直行するために、プドゥラヤ・バスターミナル へタクシーで移動。ターミナルの中も外も、強烈な熱気と迫力にしばし圧倒される。‥でも、これを見るために来たんだ。土曜のためか、すぐ発車するバスは売れ切れ、ようやく16時30分の券が買えた。午前9時、まだ7時間もある。強烈な雑踏にターミナルから逃げ出した。 200mほど離れたところに、芝生のグラウンドがあり、インド系の少年たちがホッケーに興じている。広々とした緑のグラウンド、左手に白くて品の良いレストハウス。正面木立の奥には、キリスト教のチャペル風の、茶色いレンガ造りの建物。木陰に座り、そよ風の気持のよさにボーっとしていた。学生風の少年が4人、マレー系とインド系、すぐ横に座り、ホッケーをしている連中に声をかけたりしている。中の一人が話しかけてきた。少し話すうち、これから朝食に行くというと、付き合ってくれることになり、中の一人、ラヒム君が代金まで払ってくれてしまった。バスターミナル内のマーケット屋台、ライスに、めちゃ辛いソースと小魚、木の実にゆで卵添え。クアンタンに予定のホテルはあるが、まだ予約を入れていないというと、公衆電話から東海岸初日のホテルの予約をしてくれ、さらに彼のアパートに招かれた。 彼らはビジネス・ハイスクールの学生。今年入学、来年の秋卒業予定。 19歳から20歳。ラヒム君は最後まで付き合ってくれ、バーガーショップでハンバーガーとジュースをおごって別れた。ラヒム君だけでなく、あの四人は恵まれた環境の子弟なのだろう。 心に残ったことがあった。ターミナルの周囲に盲人達がハーモニカオルガンで、つたない音楽を演奏し、通行人に恵みを乞うていたが、その彼らに、なるべくさりげなく、特に私には気づかれないように、一人がその紐を結び直す振りをしてわざと遅れ、一人がそれにつきあうように残り、そっと小銭を落とす。私は少し恥ずかしさを感じた。宗教の生きている国、インド系の二人はヒンドゥー教徒、マレー系の二人はムスリム。 |
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16時30分のバス、遅れ17時に出発。 バスのスピードには肝を冷やした。エンジンがよく焼けないと思うほど、アクセルを踏みっぱなし。120km以上は出ていたと思う。それも、日本のローカル道路並みの幅しかない、しかもの舗装はかなり荒れている。一つ一つのカーブは大きいのだが、スピードを落とさないまま回る。よくひっくり返らないと思う。途中、休憩所で話したカナダ人親子3人(白人夫婦に子供はなぜか黒人)、彼らもクレージーだと驚いていた。これがノーマルな 運転なのだろうか。今後のバスに不安を感じた。しかし、マレー人達は平気で乗っていたところを見ると‥これが普通?! 21時30分クアンタンに到着。心配したホテルの場所もターミナルから近かった。ダブルベッド一台 シングル一台の3人用の部屋、クーラー付き。近くの中華料理店で夕食。軽くといったのに、ちょっと多かった。明日は明日ゆっくり寝て。今日のところはまず少々たまった疲れをいやそう。 |
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8月12日日曜日 8:30起床。よく眠れた。のんびり身支度、何をするでもなく、ビーチ行ってみる。3キロ歩く覚悟でいたら、すぐにバスが来た。バスは混んでい入り口から少々はみ出し、手すりにつかまって乗る。なるほど、今日は日曜日。 少し黄色味を帯びた、きれいな砂のビーチだ。頭から足先まで布をまとったムスリムのマレー系女性、民族衣装のインド系女性、中国人、旅の欧州人。人は多いが、どことなくつつましやかで静かな雰囲気だ。 よく見ると、小さな子供以外、女性はほとんどというより全く泳いでいない。若い女性が浅い水際に入って水際で戯れているぐらい。まれに、中国系女性が、奥まで入り水遊びしているが、それも水着ではなくショートパンツに Tシャツのままだ。 クアラルンプールから来たというマレー系の若者に聞いたら、やはり宗教が理由。特に東海岸地方は固く守られているとのことだ。 |
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宿屋を見つけた。朝と昼を兼ねた食事、店の人に見つくろってもらい、また海へ。 きれいなムスリム衣装の、かわいらしいマレー人の女の子二人いた。カメラを向けると恥ずかしそうな笑顔を向ける。写真を撮ったら、住所を教えてくれと言ってきた。こちらも教えてもらい、写真を送る約束をする。 のどが渇き、サトウキビジュース。まだ足らず、アイスコーヒー(こちらではCopi Ice)と揚げバナナを買って、岩場へ行き、荷物をおろして木陰で休み、しばし恵みの海と対話する。ありきたりの表現を厭わずに言えば、素朴な人々はなんと美しい。この対話は旅の終りまで続きそうだ。何も教えてくれるだろう ? 観光ポイントを探すでもなく、1日を贅沢に使った。 夕方、宿近くの店でサテーを注文。近くのテーブルに、昼ホテルのカフェテラスで出会ったアメリカ人夫婦が、こっちに来いと誘ってくれた。彼らは今年いっぱい休暇旅行。何ともうらやましい。昨日のバスで一緒だった、カナダ人夫婦と幼い娘の3人に出会い合流。英語人どうしの話しが進み、言葉がついて行けない。娘のサリーちゃんがわたしの相手。話しはもっぱらBUGSのこと、あー情けない。英語はしっかり勉強しなければ‥。 |
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8月13日月曜日 3日目 6:35 AM目をさましたら、外が明るくなっていたので、日の出を撮ろうと海に出た。水平線からの日の出は見られなかったが、時間がゆっくり流れているような平和な静けさだ。 中国人の宿のおばさんに、Post Officeに行きたいといったら、親切にも旦那に電話して連れて行ってやってくれと頼んでくれた。旦那を待つ間、いろいろ話しをした。朝のコーヒーまで出してくれて‥。 バスターミナルへ。どこでもそうが、ターミナルの周辺は食事、野菜果物、服などのの屋台で煩雑した熱気。食事には事欠く心配はなさそうだ。 旅人にはみな親切だ。ちょっと困った顔をしていると、必ずだれかが声をかけてくれる。「どこへ行くの?」「そこなら何々色のバスがいくよ。ここで待っていなさい。きたら教えてあげる。」どんなに人相の良くない男でも‥たとえ、英語が話せない人でも、目が合えば必ず会釈する。こちらも自然に声がかけられる。Kemamanまでのバス、2.70ドル。ローカルバス。道沿いの村落(カンポン)ごとに停まる。どこでも客があれば乗せる。バス・ストップが有るのか無いのか、降りる人があればまた停まる。 1時間半でKemaman、小さな漁村。そして、Dungun。この辺になると、インド人も少なく、ほとんどマレーシア人と中国人が少々。もっとも街の中は中国人も多いが‥。そういえばクアラルンプール空港いらい日本人を見ていない。いたかもしれないが、判別できなかった。そうかなあと思うと中国語を話している。 クアンタンからコタバルの海岸沿いには、無数の小さなカンポン(集落)が続く。高床式のそれらの家々は、どれも日本人の目から見たらバラックといってもよいほどの簡素なつくりだ。 使っている木材は古いものが多く、屋根のトタンは錆びていたりするが、家の中はよく掃除され清潔感がある。住む人々に笑顔は絶えず、特に子供たちは明るく元気でみな幸せそうだ。しかし小さい子供たちが働く姿もよく見掛ける。学校に通えない子も少なくないようだ。 貧富で幸せを量ることなどむろんできない。貧しく見えるカンポンの生活は明るくのどかで、都会のストレスにまみれる日本の我々よりも、よほど幸せではないかとさえ感じる。しかしそこには子供を学校に通わせるることができなかったり、進学をあきらめて働いてもらわなければならない現実もある。 病気をした時の不安もあるだろうし、津波が襲いかねない海岸や入り江に住みたいと思って住んでいるわけではないだろう。だから、輪タクやサムロの運転手も必死に働いて少しでも豊かになろうとしている。 海岸沿いのバスの車窓に、美しく平和な光景と、そんな思いが交錯する。 |
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▶ 旅に知る「全ては運」 |
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やっと今日の目的地Rantau Abang 大海亀の浜辺。ようやくここまで来たが、果たして大亀の産卵をみることができるかどうか。小さなカンポン、大亀観光専用の小さなバンガロー。10ドル。あまり快適とは言い難い。必ず見れるとは限らない。亀まかせ。 隣のバンガロールに泊まっているマレー人の若者が話しかけてきた。8人兄弟の長男で仕切りたがり屋。少し軽薄なところもあるが、とても人なつこく、話好き。ドイツ人学生二人づれと 5人で茶店で夕食を共にして、いつ来るかわからない亀を待つ。本当に来るんだろうか‥。ドイツ人たちが部屋に戻り、2人で夜の浜辺を散歩。卵をまもるために集めた金網の囲いの中では、子ガメがたくさん生まれていた。今夜生まれたばかり、あす朝6:00 に放すのだそうだ。 その様子をカメラに収めていると、後ろで騒がしい。「タートルだ!」波打ち際に目を凝らすと、黒い小山のようなものが動いている。暗くてよくわからないが、大きいぞ。午後10時、ラッキーだ。みんなが集まってくる。慌ててカメラの準備をしたら、「今はまだ駄目だ、卵を産みはじめるまで待て。」と係りの人。全部で3時間かかるらしい!? 本当かよ。砂に座ってじっくり待つことにする。アメリカ人・イタリア人・ドイツ人・マレー人・中国人そして日本人一人。 かなりの時間がたった。大海亀の体は半分砂の下に入っている。係りのOKがでて、人垣の輪が縮まり撮影開始。監視員の一人は亀に手伝って穴をひろげている。生み始めると、それを傍から腕を入れて取り出し、袋に詰める。先ほど見た保護囲いの中で守るためだ。終りの方の卵は小さい。監視員がマレー人の子供たちにあげている。とっておいても孵らないらしい。産卵が終わってさらに1時間余り、亀の努力は続く。本能といってしまえばそれまでだが、親ガメが卵を守ろうとするその姿に胸が熱くなる。卵を産み落とした穴の跡形が消えるまで、何遍も何遍も砂をかけ、体で測ってはまた砂をかける。6フィート以上あるといっていた、200から300kg。いびきのように喘ぎ、口から目から粘液が流れ、砂がそれにまとわり付く。生命の迫力。海に帰るまでほとんどの人が静かに見送っている。海に入ると、あっという間にかなたに消えた。 |
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8月14日火曜日 8:40ごろバス停近くでコーヒーとバナナ2本。95セント。飲んでいるうちにそれらしいバスが通り過ぎてしまった。9:00過ぎても来ない。よし、ヒッチハイクだ。でもだれも止まってくれない。 バス停近くの小屋から子供の声が聞こえる。学校のようだ。何かを暗唱しているらしい、そろった声が聞こえる。ヒッチをトライしている間に、学校は休み時間になった。子供たちが 15-6人出てきた。先生らしい女性がいる。「写真撮ってもいいですか。」若くてチャーミング、とても知的なまなざしの女性だ。「ここは学校ですか」「はい、小さな子供たちだけの。」話している間もなくバスが来た。まだしばらく来なくてもよかったのに‥。 Terengganuまで 3ドル。いつまでも続く美しいヤシと、素朴なカンポン。入り江と湿地の織りなす、絵のような風景。頭の芯が少々痛む。寝不足と疲れか、気を付けなければ。 Terengganuに着いてまず朝食。チキンフライとライス、いろんな野菜と木の実が添えてある。トライショーに乗ろうと思い、サンタンの宮殿まで幾らか聞く。トライショーの運転手にはあまり英語が通じない。この辺まで来ると、英語のわかる人間を見つけるのもそう簡単ではなくなってきた。適当に歩いているうちに、ドイツ人の若者に出会い、一緒にツーリストセンターに行こうということになった。探しているうちに時間がきてまたバスに乗った。 コタバル行き急行 5.7ドル。風が強い。飽きるほど続く景色、ヤシとカンポンと入り江。いつしか眠ってしまう。1時間ほどたって目を覚ますと、農村地帯。稲穂のそろいは悪いが、ヤシが点在することを除けば、日本と変わらない。 |
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コタバルに着く。ここはやはり都会といっていい。Kuantanの浜辺で合ったマレー人の若者が教えてくれたHitech Hostelに、まず行ってみよう。のどが渇き途中でライムジュース
80 sent。後ろから歩いてきたオーストラリア人、すぐそこに 4ドル(4人部屋)のゲストハウスがあると教えてくれた。一人部屋でも8ドルだ。見てみたがあまり良いとは言えない。今日は少しゆっくりできるところにしたい。さらに歩いて行くと、今度はバイクに乗った若者が呼んでいる。「お前は、Hitech
Hostelを探しているんだろう、連れてってやる。」「どうしてわかる?」「この道を歩いている旅行者はたいていそうだ。」バイクに乗せられていくと右手に、Hitech
Hostelのサインが見える。「こここには2つのHitech Hostelがあり、ここは違う。」教えてもらったのはここのようだが‥。すぐそば、道の反対側の野原の中。Hitech
Hostelとはどこにも書いていない。でも部屋は涼しそう。まあいいや、おばさん(マミー)も面白そう。今そのマミーおばさんが、なにか大きな声をだして騒いでいるすぐ横で旅日記を書いている。 荷物をおろし街へ。どこともなくモスクの有る方へ。写真を2~3枚。モスクの前の公園で、マレー人の少年がサッカーをしている。公園のベンチに座ると、7~8歳のかわいい女の子3人が、こっちを見ている。ハローと声をかけると、はにかみながらも近づいてくる。いろいろと話そうとするが全く通じない。手品を見せたり、5円玉を上げたり。そのうちに少年たちも近づいてきた。一人のおじさんが話しけてくるのだか、さっぱりわからない。少し心配だったがカメラで撮ってくれと頼むと、喜んで引き受けてくれた。心配したのが恥ずかし。子供たちとしばらく過ごし、公園を出た。好奇心の強い澄んだ瞳が心に残った。 裏通りを歩き、宿への土産にDuku 1kg。バスの路線がわからないので歩いて帰と、マミーと英国人の若者に会った。一緒に食事をしようということになり、おばさんの知り合いの台湾人の店へ。小さく汚いところだったが、ビーフンスープはとてもおいしい。おばさんがDurianを買いに行こうといって、バスターミナルまで来たら、バックパッカーがいた。おばさんにとってはカモだ。マミーの強力な営業力に負けて、2人のオーストラリア人はマミーの宿に泊ることになった。おかげで、Durianはお預け。宿に戻り水浴びをして、そろそろ手紙を書こうか。 |
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8月15日水曜日 はじめのうちは、1日 がとても長く感じたが、あと5日だと思うと、残り少なく感じる。 昨夜蚊だか蚤だか、足や手を喰われ、なかなか寝付けなかったが、朝方から9時ごろまでぐっすり寝た。幸い頭の痛みは消えた。洗濯をしている間に、マミーがフレンチトーストを作ってくれた。そのあと、ポストオフィースに行こうとしていたら、Jhonnyがバイクで連れて行ってくれた。さらに、バスターミナルまで送ってもらい、そこからPCB Beachへ向かう。ビーチにはあまり人がいなかった。浜辺を歩いてみる。ヨーロッパ人女性が現地の人と砂で城をつくっていた。海の中には旦那らしい人がいる。フランス人だった。京都大学でコンピューターを教える予定だそうだ。少し泳いだ後、3人でカルチャーセンターに行く。 タクシー代一人70ドル。4時前にセンターにつくと、Gasung (コマ回し)が始まっていた。Silatは案外面白い。まず、太鼓・笛・ドラの音楽に始まり、一人が様々なポーズをキメながら踊り出す。もう一人も同様に舞い始める。そして、二人で距離を保ちながら舞い、次第に距離をつめていく。太鼓のリズムもだんだん早くなり、いくつかのキメの後、突然二人が闘い始める。絡み合うのは一瞬で、戦って踊り、踊っては組み合う。直接の蹴りや突きが当たらないようにしているが、結構迫力がある。みながらピンク色のジュースを飲んだが、なんのジュースか判らない。 帰りの道で、マレーシア人の 高校生がHostelまでの近道を教えてくれた。夜はちょうどマミーが出かけるところ。Durianを食べた。確かに臭いは悪い。大きな種の周りを、どろっとした白い液状の果肉。果物という感じはせず、まだうまいと感じることが出来なかったが、又トライしてみよう。 |
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夕食を食べて(午後4:45分)、そのあと目的のひとつWayan Klitを見に、またカルチャーセンターに行く。 カルチャーセンターにつくとWayan Klitは始まっていたが、また人は少なかった。外国人も何組かいるが、マレー人の方が多い。裏舞台の写真が撮れないかと思い、回ってみる。意外に多くの人がすでに見に来ている。一人のマレー人がわたしのために小屋の中の席を空けてくれた。太鼓やドラ・鉦・笛のリズムが少し粗削りだが強烈だ。演奏の間にお茶を飲んだり、たばこを吸ったり気軽にやっている。 3~4歳だろうか、一人の男の子がWayan 影絵劇をじっと見つめている。長い時間飽きもしないで、時々席を立つが、ジュースや菓子を手に、またもとの席に戻って、熱心に見ている。目の澄んだ利発そうなマレー人の子供だ。しばらく中を見たあと、今度は外側から写真を撮ろうと正面近くにまわり、座って鑑賞していた。するとさっきの男の子が、画面の正面、だれよりも近いところを占領し、すごい集中力で見ている。私がその子をだけにストロボ光が当たるよう苦労して写真を撮っていると、周りの人たちが笑っていた。 Wayan Klitは一度休憩に入る。すでに外国人は少なくなっていたが、これを機に私以外の外国人は消えてしまった。入れ替わりにマレー人の数は 2~300人になっていただろうか。トライショーの車夫も車に乗ったまま、ずいぶんたくさん見に来ている。2回目が始まり、わたしには全く分からないが、マレー人が所々大声で笑っている。何か場違いの感じがして、帰ることにした。午後 11:30になっていた。 途中でかき氷50セント。日本のそれと比べられないぐらい凝っている。いろんな種類の蜜や、寒天、ゼリーのような菓子、果物、木の実など 10種類ぐらい入る。ビニールに入れてもらい、食べながら帰る。 宿に帰ると、マミーがDurianを進める。さっきよりはおいしく感じるが、まだまだだ。ドイツ人二人も戻ってきた。マミーの話「妹ががんで死んで、その時から二人の子供、女の子と男の子(Jhonny)を引き取った。若かったので二人を育てるのは大変だった。歌手になり世界中飛び歩いた。上の娘はマレー航空のスチュワーデスになり、Jhonnyももうすぐ航空会社の整備士になる。とても良い子供たちで今は幸せだ。」マレー航空の広告に娘の写真が載っている。とても美人だ。 その晩、相変わらず蚊に悩まされた割に、よく眠れた。 |
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8月16日木曜日 マミーに宿代 30ドル(2泊+2朝食+夕食+ドリアン+チップ)を支払い、マレー航空のオフィースへ。 満席で明日の夕方まで取れない。仕方がない直接空港に行って、キャンセル待ちをするしかない。バスがなかなか来ない。ようやく着いたが、ちょうど 10:20の便が出るところ、次の便を待たなければ。 空港でも、子供たちはよく働いている。その子供たちと、心だけのコミュニケーション。彼らからコーヒー牛乳 80 sent買う。今日は「学校の日だろう?」と何とか伝えるとニヤニヤしていた。その子供たちも、11:00になると、一斉に帰って行った。 まだだいぶ時間がある。空港の外のオープンレストラン(屋台)で、かき氷を探すが無い。一軒の店でジュースとバナナを頼む。そばに2歳ぐらいと4歳ぐらいの女の子、かわいいので写真を撮る。店にはそのお母さんとおばあさん。お母さんは少し英語が話せる。子供のことなどしばらく話しているうちに、マンゴーを剥いて出してくれた。別れ際に、おばあさんがランブータンを二つくれた。 |
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午後1:00発に、空席ができる。気がつかなかったが、この便はPenangとIpohに立ち寄る。双発のプロペラ飛行機の旅が、意外に疲れた。午後4:00過ぎにクアラルンプールに着く。初日はタクシーを使ったが、バスがないわけはないと思い探してみる。ダウンタウンまで 1ドル20セント。 ターミナルに着き。ツーリスト・インフォメーション を探したが見つからない。この辺はマレー人地区なので、英語があまり通じない。とにかく少し高くてもいいと思い、Shiraz Hotelを探して歩く。 ホテルの少し手前の信号で、反対方向から来る車に気がつかないで渡ろうとしたとき、危ないと手で押さえてくれた若者がいる。彼が「どこ行くの」「そこは高いが、このリスト(私もっていた)の一番下の方がよいと思う。ユースホステルもある。」と親切に教えてくれる。「同じ方角だから連れて行ってあげる。(明らかに善意のうそ)」という。日も暮れてきたし、甘えることにする。 この旅の中で、いつも毎日こんな親切な人に出会う。心が洗われる。ある本に、マレー人の親切さは表面だけで、深さがないと書いてあったが、表面だけでここまでできるだろうか。ここまでできるなら、表面だけでも十分ではないか。もともと行為に表面も真実もない、人に与える結果のほうが大事なのではないか。心はあとから整っていけばいい。 “Wisma Belia hostel” アウトオブバスだが、ダブルベッドにシングル二つの広い部屋20ドル。お礼に彼を食事に誘う。サテーとチャーハン、飲み物二つ 13ドル。いろいろ話すうち、民族や政治の話しになる。‥悔し、いたいことがうまく言えない。やはり言葉だ。 マレーシアはマレー人の国だということ。1964年の暴動のこと。華僑のコミュニストのこと。少しは知っている。しかしマレー人のAmin君の口から直接本音が聞きたい。自分の考えをぶつけて、どんな答えが返ってくるか知りたい。しかし言葉だ‥。 |
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8月17日金曜日 午前7:30起床。バスでダウンタウンに向かう。Pudutayaに着くと、8:58だった。Malacca行き 午前9:00発のバスがある。朝食をとる間もなくバスに乗る。エアコン付きですぐに眠ってしまった。 12時過ぎMalacca着。まずホテルを探そう。Hotel Hong Kong、ダブルベッドルームのシングルユース。23ドルと少し高いがエアコンシャワー付き、トイレ外。後半は体を大事にしたい。 荷物を置いて、街に出る。ポルトガル人集落を見にバス停へ。近くにいた 3人連れの女性に 17番バスはいつ来るんだと聞いてみる。3人とも後ろを向いたまま返事をしている。英語は話せる。いろいろ聞いているうちに、とてもきれいな笑顔を見せるようになった。働いているとのこと。午後1:30なぜこんな時間にバス停にいるの ?「金曜日はお祈りのため休みが 2時間あります。」なるほど。バスが来て、彼女たちは途中で降りた。 ポルトゲスセツルメントの近くで、チキンとライスの食事をとる。街に戻ってしばらく観光。サンチャゴ砦、ミュージアム、ちょっと腹が痛い。冷たいものを飲み過ぎた。宿に帰って薬を飲む。少し休んで午後5時過ぎに、バスターミナルまで行き、明日のクアラルンプールまでの予約をする。 それからまた街を歩く。チュンフーウンテン寺院、スタダイス、いろいろの人が話しかけてくる。サンタンの井戸近くの丘にのぼる。夕焼けがきれいだ。マラッカの町が一望できる。沖縄と同じような形の墓が散在している。入り口には漢字が書かれている。宿の近くで夕食をとる。雲吞面とブラックコーヒー 、パイナップル。 夜の街を歩く。デパートで土産用の買い物を少し、店員は中国系で美人が多い。体力にいいというお茶50セント。午後9:00宿に戻りシャワーを浴びる。ビールを飲みながら日記をつけている。今は午後10:15、外の屋台はまだ開いている。マレーシアの人々に取って、仕事が終わって日が暮れてからが、一つの楽しみの時間だ。 |
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8月18日土曜日 マレーシアで過ごす最後の日。マレーシアの人々の優し親切さに甘えっぱなしで過ごしてしまったような気がする。 朝7:30、Hotel Hong Kongのおじさんが起こしてくれる。身支度をしてバスターミナルへ。少し時間があるので朝食。何度か食べたNasi Lemakとブラックコーヒーで 90 sent。バスも空いていた。日差しが強いので、反対側の席に移る。 斜め後ろの席の女の子が話しかけてきた。彼女は23歳KLの大学に通う大学生。兄弟10人の6番目(あう人あう人みな兄弟10人近くかそれ以上。)。Malaccaの実家に帰っていて、また KLに戻るところ。ボーイフレンドいるの ?「ええ、バスターミナルに来てると思う」ナーンダ面白くない。英語科の学生で、来年卒業したら先生になるつもりだという。いつしか彼女は眠っていた。寝顔がとても可憐だ。 |
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バスターミナルから、おとといと同じホテルWisma Bella へ。荷物を置いて、Rahim君のアパートに行ってみる。直線距離では近いところだが、川があるので橋まで遠回り。やっと見つけたと思ったが不在。彼メッセージを書いていたら30歳ぐらいの男が話しかけてきた。事情を話したら、多分この部屋で間違いないと教えてくれた。顔を合わせて挨拶ぐらいはするが、名前までは知らないとのこと。彼も言っていたが、都会はどこでも同じだ。あいさつを交わすだけでも、東京よりはましか? 「どこへ行くの」キングスパレスを見て、さらにあちこちに行ってみようと思っているといったら「それではキングスパレスまで車で連れて行ってやる。」少し疲れ気味なのでまた甘えることにした。キングスパレスを見てレイクガーデンまではタクシー 。のんびり歩いて、独立記念塔まで。豆乳と漬物のような果物を買う。 そこからタクシーに乗り、国立回教寺院へ。大理石の床を 10人ぐらいが機械で磨いている。片方の礼拝場(中央の建物の左右に、大理石の板を貼った、広い礼拝場がある。)では、何人かが中に坐り新聞を読んでいたり、熱心に礼拝をしたりしている。時間がゆったりと流れている。礼拝を呼びかける歌のような声が、スピーカーから流れ始める。人びとが動き始める。隅の方にある水場で、顔や手足を濯いでいる。モスクの周り、あちこちにある水道で洗っている人もいる。中央の奥の部屋に集まっていく。古い大理石の美しい建物だが、よく見ると、広々とした礼拝堂の柱一本一本に各々2個づつ壁掛け式の扇風機が取り付けてある。何か場違いのような気もしたが、大勢の人々が集まるときに、これがなければ暑くて祈りに集中できないだろ。 |
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のんびりした気分でいたら、あっという間に1時間が過ぎていた。バス停に戻る途中、アイスクリームと月餅 2ドル90 sent。ホテルに帰り、土産のリストを作ったりして休息する。Tahim君からの連絡はなかった。 午後6:00少し過ぎ、ホテルを出る。バスターミナルを越して、そのまま乗ってみたが目的のキャンベル・ショッピングコンプレックスを通り過ぎてしまった。ガイドブックで読んだイメージの大きさではなかった。少し土産用の買い物する。タクシーを拾い、マレーシア最後の目的地、サンデーマーケットへ。 まずかき氷を探す。また土産用の買い物をして。サテーとセブンアップで食事をとる。 キャンベル・ショッピングコンプレックスまで歩いて戻り、そこからバスを探す。30番のバスの停留所はどこですかと若者に聞く。「いや30番のバスはWisma Bellaに行かない。1番でバスターミナルまで行き、そこからの乗り換えだ。」と話している間に、30番が来る。乗ろうとすると引き留められた。私はさっき30番のバスでここまで来たというと、もう一人がマレー語で「30番で行くよ」と言っている素振り。「I’m sorry.私のまちがいでした。」結局そのあとに来たバスで直接帰ることができた。 |
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8月19日日曜日 Malaysiaを離れる時が来た。 午前6:30起床。朝食にスプリングロール・春巻きとギュウヒのようなケーキ、ジュースをビニール袋に入れてもらいテークアウト 。 空港までの道、もうマレーシアらしい風景はない。すでにマレーシアの旅は終わってしまった。出発ロビーに入りコーヒーを飲む。すぐ横で中年の日本人の男が3人で話している。ずいぶん言葉遣いが荒く聞こえる。確かにマレーシアは、日本に比較すれば貧しい国かもしれないが、心は豊かで、よほど優雅に感じられた。何人か日本人がいて、目が合いそうになると、あえてそらした。話しを交わしたくない。旅の名残をもう少し味わいたい。 飛行機が動き出す。! Selamat Tinggal Malaysia. |
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1時間ほどでシンガポール。 マレーシアの旅を終え、シンガポールに戻ってくると、空港には数多くの日本人のビジネスマンを見かけた。彼らは2・3人で、大きな声で話している。マレー人やマレーシアに住む華僑、さらにインド系の人々の、優しい気遣いを感じさせる話し方になれた私には、少なからず粗野な印象を受けた。話の内容も、たいていは食事や習慣について、日本との比較で、日本の良さを言い合い、満足して笑いあったりしている。そんな話には絶対入りたくない。旅に戻りたい。 空港カウンターでホテルを予約。バスで、ダウンタウンへ。空港でもらった地図を頼りに歩く。食事に、肉まん2個とミリンダ 。またバスに乗り 、チャイナタウンの端のMajestic Hote。リストの中で一番安いので外見はよくないが、マレーシアで利用したホテルに比べれば、クーラーはあるし、アウトオブバスだがシャワーは温水、快適だ。少し洗濯してから外に出る。バスの路線がさっぱりわからないので、地図を手に歩いてみる。宿の近くにショッピングセンターがあり、二階が食店街になっている。かき氷を見つけ適当に頼んだら氷あずきが出てきた。いろいろ種類があるようだ。みな漢字で書いてあるがよくわからない。 ここは中国人が多い。町中のせいもあるだろうが、マレー人をあまり見かけない。インド系はそれに比べれば多少多いようだ。仏教寺院・ヒンズー寺院、モスクを見て回ったが、マレーシアとは逆に、仏教やヒンズー教寺院は多く凝った建物も多いが、モスクはさびれた感じ。マレー人にしてみれば、乗っ取られたと感じているのではないだろうか。 ダウンタウンに向かって歩く途中、Aquariumに立ち寄る。Aquariumの前が大丸デパートになっていて、若者たちでにぎわっている。かなり新し大きなビル。上の方はホテルニューオータニ。「朝はライオンの歯磨きで歯を磨き、ダットサンに乗って、大丸へ買い物、日立のエレベーターで‥」マラッカ物語だったか、そんな記述があったのを思い出す。 |
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足が痛い。太ももやふくらはぎはそれほどでもないが、足首から下が痛い。足で稼ぐには、靴を選ぶべきか。 大きな町ではあるが、いかにもシンガポールというイメージはどこにも感じられなかった。どうしてここが東洋の真珠と言われ、多くの日本人観を客が集まるかよくわからない。最も下調べもなく、たった1日も滞在では、わかるはずのないが。 大きなショッピングセンターに入る。マレーシアのそれに比べて高価なものが並べられている。貧乏な旅人には少々みじめ。旅はすでに終わってしまったようだ。 適当にバスに乗る40セント。ところがしばらく走ると、Uターンして逆方向に向かう。慌てて降りて若い女性に聞く。これを見なさいと、近くの案内板を示した。 |
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ここにきて都会人の人間性というものを改めて感じる。教えてくれることはくれるが、分からなければ分からないというだけで、何とかしてあげようという気持ちはない。小さなレストランで昼飯をとっていると、一人の中国人が入ってきてなにかを注文した。店員が注文の品をテーブルの上に置くと、客が1ドルをテーブルの上にほうり出す。間髪を入れず、店員も釣り銭をテーブルの上にほうり出して去る。まるで言合せたかのような動作だ。客と店員の間には何の感情もない。 大都会は何かを忘れさせてしまう。マレーシアの東海岸では知らないどうしでも顔が合えば声を掛け合う。旅人が困っていれば、誰かしらが助けてくれようとする。KLでもそんな気持はだいぶ残っている。ここではもうやりにくい。人間が多すぎて、いちいちそんな悠長なことをしていられない。それは東京も同じことだが、果たしてそれだけだろうか 。 バス40セント。痛い足を引きずり、チャイナタウンのショッピングアーケードに戻り夕食をとる 。牛肉湯とライス、ビールを頼む。「牛」の字につられて頼んだが、ほとんどモツ煮込み。しかも一つ一つ大きく少々気味悪いが何でもチャレンジだ。口直しにDukuを1キロ 買って宿に帰りシャワーを浴びる。宿のおじさんチップ渡し、両替と7UP 1本、明朝のモーニングコールを頼んだ。 部屋の狭いベランダに出て、まだ蒸し暑い外気に触れながら、すでに懐かしく旅のシーンを振り返っていた。 もう明日は東京だ。いや帰ると思うのはよそう。東洋の一つの国・日本、たまたま今そこに仕事と家があるに過ぎない。私は明日、日本に旅立つ。 |
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