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Home>Journey & Photo>インド 悉達多との対話 マレーシアの旅 | ビルマの旅 | インドの旅 

 インド 悉達多に会いたくて 1999 Nov./11~24 #T

#T 1日目 2日目 3日目 | #U 4日目 5日目 6日目 | #V 7日目 8日目 9日目 | #W 10日目 11日目 12日目 13日目 14日目
  ? ルートマップ☆彡
     

インドへのプロローグ

     
 インドへの旅は青春のBucket List(生涯のリスト)だった。
 中学の頃から世界を回りインドに行ってみたいと夢見ていた。大学4年の時、1年間アルバイトをして渡航費を作り、大学紛争と就職活動から逃げるように渡米した。賃金の良いアメリカでさらに働いて、資金と同時に英話力もつけ、ヨーロッパからヒッチハイクでインドまで行こうと目論んでいた。アメリカで1年数か月働いてそこそこの資金を作ることができた。だが、いよいよイギリスに渡ろうとした矢先に、突然の病気で断念せざるを得なかった。

 その後結婚し、サラリーマン時代に年1・2回、東南アジアの各国をバックパッキングで1週間程度の旅をしたが、インドは半端な旅にしたく無いと思い行くことができずにいた。1990年頃から務めていた日本ポラロイドの経営が悪化、プライベートな旅のために1週間続けて会社を休むことなど無理になり、インドは再び遠のいた。

 1998年の終わりに、会社から3度目となるリストラ・希望退職の募集があり、もはや残るも地獄と思い脱サラ・起業の道を選んだ。翌1999年4月に会社を立ち上げ、毎日深夜・明け方までPCに向かい、ホームページで光学機器のネットショップを作りを続けた。しかし、実際にWEBにアップしても反応はわずかで、これからの生活がどうなるか見当もつかなかった。

 その時、インドのことが脳裏に蘇ってきた。
 『この起業がもしうまくいったとしても、忙しくてインドに行く時間は作れなくなるだろう。反対に2年以内に目途がつかなければ資金は底をついて、それこそインドどころではなくなる。‥年齢はすでに50歳、そうだ体力的にも行くなら今しかない。』
 大学生二人を含む家族5人を持つ身として誠に身勝手な発想だが、妻は反対しなかった。実のところ彼女も、20歳の女性の身で単身船でアメリカに渡るほどのJouney Janky、私の気持ちを理解してくれている。
 
     

1日目 ムンバイ 真夜中の神風タクシー

 1999年11月11日 木曜日

 アメリカから戻って30年、今ようやくインドの旅を始めようとしている。
 ここ10年はバックパッキングの一人旅から遠ざかり、年齢からくる怖さもある。どこかに課題をこなす義務のような気持ちも残り、旅を楽しむ気分になってこない。

 飛行機は快適だった。成田を出るとすぐ、白く冠雪した富士が見送ってくれた。
 ジェット旅客機から鳥瞰する中国、ミャンマー、バングラディシュ、そしてインドまで、陸地は途切れることなくが続いている。この地続きの地上に、ひと山越えれば言葉も通じないほどの違い、民族文化の多様性が有ることを不思議に思いながら、ニューデリーまで長い時間、地上を想像し子供っぽく窓の下を眺めていた。

 到着の前、エベレストが見えていると機内アナウンスがあった。
 雲海の彼方に、エベレストは威厳に満ちた真っ白な姿で迎えてくれていた。
 
 
 ニューデリーのマハトマガンディー空港を中継し、ムンバイ(Munbay)に一時間遅れて到着した。空港からはタクシーに乗り、事前に予約しておいたダウンタウンのホテルに向う。

 乗車したタクシーは神風タクシーだった。いままで東南アジア旅行で、猛スピードの長距離バスに何度も驚ろかされたが、こんなに乱暴なタクシーは経験したことのなかい。
 舗装の悪い穴だらけの道を、周囲を走るタクシーや三輪オートリクシャー、バス、トラックと競い合いもみ合って進む。カーブもスピードを落とさず、カーチェースのように車輪が大きな悲鳴を上げる。交差点に信号はあっても、このタクシーだけでなくほとんどの車が無視して前から横から車両が交差、接触すると何度も思ったが、それでも不思議に事故を起こさずにすり抜けていく。今は夜の12時近い。その暗い道を渡る人間も特に急いだふうもなく、車と触れ合うばかりに歩き抜ける。タクシーは相手が人であっても全くお構いなく突っ込み、間一髪でかわす。危険な運転がホテルに行くまでのあいだ中繰り返される。

 空港を出てしばらくは運転の恐ろしさばかりに気を取られたが、気持ちが開き直ると街のたたずまいや人々の生活ぶりに心が向かい始めた。

 予想はしていたが、インドは今まで旅をした中で特に貧しい国のひとつだ。ビルマ(ミャンマー)やタイ東北部も人々の暮らしぶりは貧しかった。しかし、インドはもっと根深い何かを感じた。

 ようやくホテルに着き、今度は値段をつり上げようとするマネージャーと少々もめた。これから別のホテルを探すには、夜遅すぎること見透かされたようだ。


ムンバイの神風タクシー
 
     

2日目  色あせたサリーの老女

     
11月12日 金曜日
 
 朝、ヴィクトリア・ターミナス駅(チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス )に寄り、午後9時20分発のエローラ石窟寺院の中継地アウランガバッド行き、二等寝台指定席の切符を購入。その時間まではムンバイ街歩き。人と車、牛車でごった返す市場、インド門やその近くのタージマハールホテル、シヴァジ王博物館などをめぐり、夕方にヴィクトリア・ターミナス駅に戻ってきた。

 発車まではまだ1時間以上の時間が有ったので待合室に入り座っていた。
 築100年を超えるこの駅舎は、ゴシック様式の巨大な教会のような建物だ。待合室はとても広く、天井はビルの三階分の高さがありそうだ。窓は煤けて埃がたまり、壁にはいたるところにしみがある。この広い部屋にしては少なすぎる釣り下ろしの蛍光灯が6灯、あまり明るくはない。蛍光灯のあいだにつり下げられた黒い大きな扇風機がゆっくりと回っている。8機ある扇風機の一つは止まっている。

 広い待合室の一角で床を清掃をしている青色のサリー姿の老女に目が留まる。老女は素足、その細い足首に足飾りを巻いている。身にまとうサリーは色あせていて、肌の色はかなり黒い。概ね下働きの人々の肌の色は黒く、人種的な傾向が見える。

 長年の仕事からか、老女の腰は深く曲がっている。水を入れたバケツにモップ浸し、大理石の床を濡らすよう拭いていく。一角が済むと、バケツを両の手で重そうに持ち上げて移動し、また床に置く。移動のたびに、バケツを石の床に置く音が待合室のコンクリートの壁にこだまする。一日、課せられた仕事をゆっくりとした動きで続けている。人種とカーストの壁、あきらめの姿が老女に現れている。

 待合室で座って待つことに心がしびれ外に出る。駅舎を出てすぐ、車が頻繁に行き交う車道の脇、コンクリートの歩道に若い母親と老婆が直に座り、幼い4人の子供たちに食べ物を与えている。小さい女の子が後ろからかぶさるように戯れ、母親は幸せそうな笑みを見せた。

 これから、9時20分の列車に乗り、ムンバイを離れる。都会はもういい。明日朝6時には、アウランガーバード(Aurangubad)に着く。エローラ(Errora)石窟寺院への拠点の町だ。

ムンバイ
ムンバイ
ムンバイ タージマハールホテル ムンバイの海岸 ムンバイ 路上生活者
     
     

3日目 車夫のシャフィー君

 

アウランガーバード 町外れの野原
<b>アウランガーバード 少女</b>
 11月13日 土曜日

 二等寝台は快適だった。夜中に目が覚めると、下の床に、そして通路にも足の踏み場もなく人が寝ている。

 早朝、アウランガーバードに着いた。駅を出るとオートリキシャーの男達が次々と声をかけてくる。積極的な車夫に危うさを感じて何人かを断り、人の良さそうな若者を見つけ、彼のオートリキシャーに乗る。「地球の歩き方」で目星を付けていたホテルに行ってみたが満室で、リキシャーの車夫が案内してくれたホテルに行ってみると、清潔そうなのでそこに宿をとることにした。彼はホテルでリベートがもらえるのだろう。あさの6時に着いたのに、シャワーを浴びるだけで昨夜一泊分も払うことになった。

 リキシャーの車夫シャフィー君に、一日300ルピーでエローラ石窟寺院を案内してもらうことにした。ホテルで2時間ほど洗濯や荷物整理をし、約束の9時にはまだ時間があったので周辺を見たくなり散歩にでた。

 ホテルの周りはまばらな木立とブッシュが生えた野原が広がっている。その野原の中に、短い支柱に布切れを回しただけの粗末なテントが散在してい。そこにいる人たちはここを住みかとしているのだろうか。道端に物置棚のような小さな店があり、横のベンチで数人が食事をしたり新聞を読んでる。

 散歩から戻る途中で、シャフィーが向かって来るの出会った。先にホテル行って待っていてもらうよう話していたら、すぐ近くに道を探しているらしい観光客をみつけ、彼らを自分のリキシャーに乗せ始めた。私を待つ間もひと仕事しようという訳か。おとなしいく見えるが、案外商売熱だ。

 彼はどこまで行ったのかと心配したが、さほどの時間もかからずに戻ってきた。
 まず、朝食のできるところへ連れて行くというのでまかせてみた。看板に「アメリカンレストラン」と書かれた店に連れていかれたが、料金が高い割に料理が不味い。支払のあと振り返ると、店のマネージャーにシャフィーが怒られている。法外のリベートを要求したのだろう。そういえば昨日私が指定した最初のホテルに着いた時も、いかにも自分が連れてきてやったと言わんばかりの態度をしていた。チャンスが有ればどんな状況でもリベートを取ろうと抜け目がない。
 
 
 朝食を了えて、一路ダウラターバード(Daulatabad)を経てエローラへ。

 10世紀末、ヤーダラ朝によって築かれたダウラターバード砦の規模は大きく重厚だ。急こう配の岩山を生かし、回廊を重ね、あちこちに洞穴を穿っている。周囲を取り巻く落差100mあるかと見える絶壁は、もともとの傾斜地をさらに人の手によりほぼ垂直に削られたものだという。絶壁の下には環濠をめぐらし、様々な仕掛けで力攻めでの突破は不可能に創られている。

 快晴で空気が澄んだ青い空を背景にを、明るい緑に光るインコの群れが、絶壁の空高く飛び交っている。

 今日は土曜日で地元の観光客が多く、ほとんどが家族連れだ。女性たちは色とりどりのサリーを身にまとい、モスリムの女性たちも鮮やかな民族衣装で艶やかさを競い合っている。粗削りで厳めしいこの砦とのコントラストが美しい。

 日本人を見ると、みな好奇心に満ちた人懐こい目を向けてくる。「ナマステー(こんにちは)」とこちらから声をかけると、待ったいたとばかりに嬉しそうに返事を返してくる。子供たちは握手をしてくれと言って集まってくる。若い女性は細身で切れ長・黒目勝ちな瞳、鼻筋が細く締まり、エキゾチックな魅力を湛えている。その大きな瞳で明るく大胆な視線を向けられると、少したじろいでしまう。

 最上段の視界の広らけたテラスで、十人位のグループのリーダー格のたっぷり肉の付いたおばさんにつかまり、一緒に写真を撮ろうと半分おもちゃにされてしまった。
ダウラターバード砦 
ダウラターバード砦 舞い降りる少女達 ダウラターバード砦 ダウラターバード砦
 
 
エローラ カイラーサナータ寺院
エローラ カイラーサナータ寺院
エローラ石窟寺院 シバ神
エローラ カイラーサナータ寺院
 ダウラターバードをはなれて、今日の目的地エローラに向かう
 エローラは仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教様式の30を超える寺院が、固い玄武岩の崖から掘り出された石窟寺院群だ。その最も有名なヒンドゥー教のカイラーサナータ寺院(Kailasanatha Temple)の正面で、シャフィーがオートリキシャーを止めた。

 公園のように緑が多く、きれいに整備された参道を、寺院に向かい歩いていく。近づくにつれ石の寺院の迫力に圧倒される。固い玄武岩の断層崖から、カイラーサナータ寺院が壮大な規模で掘り出しされている。幅45m、奥行き85m、高さ33m。内部と外装にも無数の彫像や装飾が彫りだされている。今から1300年も前、日本の奈良時代に、人の手だけで掘られたとは信じ難い。完成までに100年を要したという。観光客は都会のビルの谷間を歩いている様に小さく見える。

 カイラーサ寺院より南側にある、5世紀から7世紀に作られた仏教石窟群を見て回った。仏教の僧院らしく端正で清潔感のある石窟だ。第10窟には沢山の人が入っていた。仏教関係の団体らしく、僧侶らしき人を中心に皆で読経を上げていた。

 12窟は三階建てのビルのような幾何学的な形の仏教窟で、当時は僧坊として使われていたらしい。その二層目を見上げると、大きな石の柱に背をもたれて本を読んでいる、若い西欧人の女性がいた。太くて堅い岩の柱と、金髪で色白、たおやかな女性との対比が印象的で、写真を撮らせてもらおうかとも思ったが、躊躇し諦めてしまった。

 石窟を一つずつ見て回ったあと、第16窟のカイラーサナータ寺院に戻り、掘り下げられた寺院を周辺の岩の丘から眺望しようと、岩の斜面を登って行った。丘の斜面から眼下に眺めると、人々の姿はさらに小さく、寺院の迫力は一段と増して見える。

 丘を進み、寺院の真後ろに当たる辺りまで来たとき、第12窟で石の柱に背をもたれ本を読んでいた女性が、反対側から歩いて近づいてきた。細い一本道で避けることもできない。あの時、こちらが逡巡していた気配をさとられていた気がしたので、こちらから「ハイ」と声をかけ、「第12窟で本を読んでいたね、石の寺院とあなたの姿が絵になっていたので、写真を撮らしてもらおうかと思いましたが、失礼と思い声をかけなかった。」と自白すると、「声をかけてくれればよかったのに。」とさわやかな笑顔で答えてくれた。

 もう、足で稼ぐ旅は止めておこうと決めていたのに、疲れるのを無視して歩き回ってしまった。日の傾いたエローラは、さらに魅力を増しそうだが少し疲れた、ホテルに戻ろう。
エローラ カイラーサナータ寺院 エローラ エローラ
 
 
 来た道をリキシャーで戻る途中、イスラーム教・スーフィーの聖者が眠るというクルタバード(Khultabad)に立ち寄ったが、特にみるべきものもない貧しそうな集落だった。ここの住人たちは、何をして生計を立てているのだろうか。粗末な土壁の家、中にはホテル近くで見たようなテント生活の人々もいる。女性はそれでも美しいサリーを身に纏う。特に若い女性には親が気を付けてあげているようだ。

 アウランガーバードの町に戻り、両替と明日のバスの予約をする。シャフィーは私の面倒をよく見てくれる。英語がほとんど判らず、私が何か頼むとそのたびにそばの誰かに通訳させている。シャフィーが気を利かせたつもりかレストランの前で車を止めたが、夕食には早すぎるので、店のマネージャーに後でまた来ると伝えた。まだ私が実際に食事をしてもいないのに、シャフィーはマネージャーにコミッションを要求していた。戸惑っているマネージャーと目が合い、そのあまりの厚かましさに、お互いかえって笑ってしまった。

 夕日が沈もうとする頃、ホテルに戻ってきた。周辺の野原のそこここから炊飯の煙が立ち上っている。朝見た時より人の数が増えているようだ。どんな仕事から戻ってきたのだろうか。粗末なテントがあちこちに見えているが、とてもこの人数を収容できそうにない。小さな子供たちもいが彼らには学校に通うチャンスがあるのだろうか。病気をしたら、年を取ったらとどうするのだろうと、様々な疑問が脳裏をかすめる。

 ホテルに帰り、シャフィーに約束の300ルピーとチップ20ルピーを渡した。シャフィーが少し離れたとき、ホテルのマネージャーが「彼は英語が話せないしヒンズー語の読み書きすらできないんだよ。」と気の毒そうにつぶやいた。彼の言葉には「働き者のいい奴なんだが‥」というニアンスがこもっていた。

 別れ際シャフィーに「君は結婚しているのか、子供はいるの。」と聞くと、若く見えるシャフィーが「妻と4人の子供がいる」と思いがけない答えが返ってきた。それを聞いて、今までの彼の行為が一度に腑に落ち、胸が熱くなった。

アウランガーバード 野原の住民と夕暮 



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アジャンター石窟寺院群〜サンチー遺跡へ






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