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 インド 悉達多に会いたくて 1999 Nov./11~24 #Ⅱ

#Ⅰ 1日目 2日目 3日目 | #Ⅱ 4日目 5日目 6日目 | #Ⅲ 7日目 8日目 9日目 | #Ⅳ 10日目 11日目 12日目 13日目 14日目
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4日目 アジャンター トイレ事情

11月14日  日曜日
 朝は6時50分、ホテルをチェックアウトして通りに出た。空は晴れていて風はほとんどない。周辺の野原のあちらこちらからテント生活者達の白い炊煙が登り、少し上空で横に曲がりゆっくりと流れている。昨夕の思いがまた蘇る。

 オートリキシャーがつかまらない。歩きでは予定していたバスの時間に遅れるかもしれない。シャフィーに頼んでおけばよかった。しばらく歩いていると路線バスが通りかかり、手をあげたら停まってくれた。運よくこのバスはバスターミナルを経由する。少し時間ができたのでターミナル前の屋台に寄り、オムレツのサンドイッチ頼んだ。煤で真っ黒、ひどくゆがんだフライパンで卵を料理、あっという間にサンドイッチが出来た。フライパンの印象と違い美味かった。

 アジャンター行のバスに乗ると、予約した番号の席に男が座っていた。気の毒な気もしたが、車掌にチケットを示し男には移動してもらった。

 朝のバスは寒くリックの中からフリースを出して腹に巻いたが、それでも冷えて調子が悪い。そのうち限界が来そうだ。

 朝9時にアジャンターに着き、石窟寺院群を回ろうとする頃には我慢しきれなくなってきた。石窟群の回廊を下ったところに公園があり、そこにトイレらしきものがあったので降り行くと、トイレには扉も無く、足の踏み場もないほど恐ろしく汚れている。公園の奥の方に滝があることを示す標識を見つけ、ましなトイレを探して奥に入っていく。やがて目の前に滝が現れたが付近にトイレは見当たらない。滝つぼの周囲には消し炭などのピクニックをした形跡があるので、ここもあと数時間もすれば大勢の人で賑わってくるのだろう。今はまだ人気は無く、周辺は林と大きな岩に遮られている。やむを得ず、滝から離れた岩陰に隠れて用を足し、何とか落ち着いた。

 午前中、2000年以上前から1300年前にかけて作られたという、仏教遺跡であるアジャンター石窟寺院群を巡る。エローラを見た後では迫力には乏しいが、エローラのような建立者の気負いは薄く、仏教に対するより真摯な想いが伝わってくる。

 帰り際に、入口の係り員にトイレが無いか聞いてみたると、ここを登って行けと石窟の崖の上に出そうな坂道を指さした。少し登ると崩れたレンガの壁があり、そのあたりの地面一帯がそれらしい場所になっていた。そういえば、朝のバスで集落を通ると水を入れている缶やバケツのようなものを手に持って周囲の野原を歩く人や、ブッシュの陰にしゃがむ人影を見かけた。それが当たり前で、この旅ではもう少し覚悟が必要だ。

 朝来たときはまだ開いていなかった遺跡前のレストランで昼食をとり、午後1時半に来たバスでジャルガウン(Jalgaon)の鉄道駅に向かった。駅前のオートリキシャーに案内を頼み、駅から遠くないホテルの三階の一室落ち着いた。部屋は西側の通りに面している。窓のすぐ外に大きく繁った木がようやく傾いた西日を遮り、ほどよい木漏れ日が部屋の中に差し込んでくる。建物は古そうだが部屋は清潔で、空気が乾いて涼しく気持ちが良い。町の喧騒も慣れてきたのかさほど気にならない。

 この町もそうだが、概ね集落は貧しい。農村や町外れの野原には、テント、土の家、わらの家(あえて家と呼ぶとすればだが‥)が散在する。町のなかにもそれと同じようなバラックと、豊かな人の清潔な屋敷とが隣り合わせになっている。貧しい人たちにとっては、このホテルもきっと夢物語な高価な施設だろう。

 きのうはシャフィー君を1日300ルピーで雇った。多分彼の一日の平均的な稼ぎよりかなりよいはずだ。日本円で720円、ガソリン代を引いて500円も残るだろうか。1年300日働けても、15万円。実際には、それよりずっと少なく、年収はせいぜい10万程度。月一万円に届かない。このホテル代の500ルピー・約1000円は彼らにとって贅沢過ぎる。しかしシャフィーはまだ未来に希望を持てるかもしれないが、野原のテント生活者にはどんな仕事があるだろうか。教育を受けるチャンスもなく、夢の持ちようもないのではないか。

 ホテルの電気がつかない。今町中が停電だ。5時ごろには通電すると言っていたが、いつものことらしい。夕食は駅前のレストランで済また。

アジャンター 石窟寺院群アジャンター石窟 菩薩像アジャンター 石窟寺院アジャンター 石窟寺院群
アジャンター 石窟寺院群の滝 アジャンター 石窟寺院群 アジャンター 石窟寺院群
 
     

5日目 客引きの若者

 
ジャルガウンからボパールヘ ジャルガウンからボパールヘ
ジャルガウンからボパールヘジャルガウンからボパールヘジャルガウンからボパールヘジャルガウンからボパールヘ いたずら小僧達 11月15日 月曜日

 朝6時少し前にジャルガウン(Jolgaon)の駅に向かう。窓口では座席の予約が出来なかった。駅員に聞いてもたらい回しにされた後、Ticket Collector Officerという人のところに行けと言われた。その事務室を探し、ようやく会えたOfficerは背の高いひょうひょうとした感じの人だった。横柄な態度で「ドアの前で待っていろ、案内してやる。」と言ったきり部屋の中に消えてしまった。不安になったが、列車が来るとすぐに現れて着いて来いと言って一緒に乗り込み、車掌の居る車両まで連れて行ってくてボックス席を確保できた。印象とは違い、親切な性格の様だ。横柄なのは身分制の影響というか、幼いときから身に付いた習性なのだろう。
 指定された同じボックスの席にいた親子も、ボバール(Bhopal)へ行くと言うので安心した。

 列車が動き出す。車窓に人々の様々な生活ぶりが現れては通り過ぎて行く。貧しさばかりが目と胸に迫る。彼等自身はそれが当たり前で、私が想像するような惨めさなどは無いのかもしれない。苦労も幸せも、悲しみも喜びもある当たり前の人生を過ごしているに過ぎないのもしれない。今まで見たどの国とも同じように、子供達はどんなに粗末なテント生活、どんなに汚れた服、服さえもほとんど着ていなくても、皆元気で目が輝いている。しかし親たちはどうなのだろうか。

 ムンバイ駅の待合室で、曲がった腰、色あせたサリー姿で重いバケツを移動してモップで床を拭いていた老婆。ジャルガウンの建設現場で見かけた、砂袋を頭にのせて運んでいた、汚れた民族衣装の婦人達。野原に建てた小さなテントで、赤子に乳を含ませていたまだ幼なさが残る女性の姿。子供を育てること自体は幸せな営みだが、あまりに脆弱だ。いつどんなことで行き詰りかねない、破たんと背中合わせのタイトロープの生活。ネット社会の発展もあり、将来に変革は始まるだろう。しかしそれは立場の弱い人々により深刻な影響を与えることもある。

 仏跡サンチー(Sanchi)への拠点の町、ボパール(Bhopal)に着くとすぐ、一人の若者がホテルを紹介すると執拗に付いてきた。彼が案内してくれたホテルを見たが、表通りに面し、騒がしくて気が進まずスルー。地図を頼りに自分で探そうとすると、別のホテルへしつこく誘おうとする。連れて行きたいホテルはコミッションが見込めるのだろう。彼を無視して裏道に入った所にあるホテルに入ってみた。運悪くそこは満室だったが、カウンターの人がすぐそこにもホテルがあると指さし教えてくれた。静かそうなホテルなので行ってみる。部屋代は500バーツと少々高いが、部屋の雰囲気もよいので、このHOTEL MANJEETに宿をとることにした。

 部屋をチェックして一階に降りると、ホテルのマネージャーがいぶかしげに私に聞いた。
「あいつがうちのホテルを紹介する筈がない。本当に彼が連れて来たのか。」
 その若者がコミッションを要求したのだろう。本当は勝手に付いてきただけだが、悪い奴でもなさそうなので、
「イエス。 彼がここを案内してくれた。」
と言ってあげた。マネージャーはまだ半信半疑の面持ちで若者のところに歩き始めると、すぐそばで聞いていたホテルの若いボーイが、マネージャーに聞こえない小さな声で「サンキュー」と私にささやいた。顔見知りだったのか、あるいは同じカーストの仲間意識なのだろう。少しインドが判り始めた気がした。
ボパールヘの車窓 ボパールヘの車窓 ボパールヘの車窓
ボパールヘの車窓 ボパールヘの車窓 ボパールヘの車窓
 
     

6日目 学校の先生とカースト

 
ボパールのホテルの窓の景色 ボパールのホテルの窓から
11月16日 火曜日
 朝5時半起床。
 ホテルの窓の下に、がれき置き場になっている空き地があり、そこで数人の若者が井戸の水をバケツに汲み体を清めていた。早朝の気温は低く井戸水も冷たそうだ。ここで身支度をして仕事に向かうのだろ。若者たちにさわやかな気概を感じた。

 空き地につながるホテル前の道に小さな家がある。鉄道の車窓でよく目にしたような、屋根が低く土壁を青くペンキで塗った、住居とも牛舎ともつかない小屋だ。そこから3・4才だろうか童女が走り出てきて、家の前にしゃがみ込んだ。童女の足の間から水が流れ道を濡らした。

 身支度して、バスターミナルにあるサンチー行きプライベートバスの停留所に向かう。昨日のうちにここからバスが出ることは確認しておいた。バスに乗り込むとすぐに出発した。車内には「No Smoking」と赤いペンキで大きく書かれていたが、運転手自身がかなりヘビースモーカー、大柄な老人で運転中ずっとタバコを口から離さない。

 朝の村々をバスが通過していく。野原にはあちこちに、水を入れた空き缶を手に持った人々が歩いている。きのうと同じような集落の姿、家事を手伝う子供たち、仕事に向かう大人たちの姿が車窓に現れ、そして通り過ぎていく。

 1時間半ほどでサンチー(Sanchi)に着いた。ここは田舎なのか今までの観光地とは違い物売りがしつこく付いてこない。一人絵葉書を見せながら声をかけてきたが、断るとあっさりと引き下がってくれた。10分ほど丘を登ると、お椀を伏せたような丸いストゥーパが見えて来た。

 サンチーの仏塔は、紀元前2世紀にアショーカ王によって建立された。おとといのアジャンター石窟寺院群よりさらに古い時代の遺跡だ。仏塔の周囲は石組みの柵で囲われ、その四方に鳥居のような石造りの門がある。上部の欄干に、ブッダの生涯を表した細かい彫刻が掘られているが、ブッダの姿は彫られていない。仏陀が入滅してからまだあまり時を経ておらず、仏陀の姿を人の形・仏像に表すことは憚られ、車輪の形や足の形で象徴的に表現しているという。遺跡の敷地は広い。この仏塔を中止に、寺院の跡や少し小さい仏塔が散在している。その多くは修行場だったようだ。

 ここは静かだ。今日は火曜で観光客も少ない。空は晴れて涼しく、澄んだそよ風が石造りの仏跡の上を流れ、道沿いに植えられたブーゲンビリアの真っ赤な花を揺らしている。

 ボバール(Bhopal )に戻ろうと停留所に向かう。停留所に20代後半のこぎれいな身なりの若者達4人がバスを待っていた。一人が自分達の買ったグァバの実を分けてくれた。グァバの実をかじり始めるとすぐにバスが来て、彼らと共に乗り込み一緒に席を占めた。隣に座った若者が英語で話しかけてきた。インド特有のアクセントでとても判りにくい。彼らにすれば、私のJapanese broken Englishはもっとわかりにくいだろう。

 若者は大学では歴史学の学位をとり、今は学校の先生で6歳から14歳の生徒にヒンズー語と歴史を教えている。彼の論文がアメリカのジオグラフィーに載ったこともあると言っていた様だが、よくわからない。アメリカの友人の論文に協力したということだったのかもしれない。今彼らはコンピューターも勉強中だとも言っていた。

 「教育は大事だ。すべての子供たちが教育を受けられるようにしなければいけない。PCはとても早いスピードで世界を変えている。子供たちにもできるだけ早い時期からPCに親しませるべきだ。」等々、私はつい熱っぽく語ってしまった。しかし、カーストの問題も含めようとすると、途端に乗り気の無い雰囲気になってしまう。彼等にとって軽々しく触れられたくない微妙な話題に切り込むには、私の英語力が貧弱で、話を深められないのは残念だ。

 荷物を預けておいたHOTEL MANJEETに戻り、カジュラーホー(Khajuraho)へ向かう用意する。昨夜頼んでおいた洗濯物はまだできていなかったが、マネージャーが電話してくれて30分ほどで届いた。

 ボバール駅に行き、カジュラーホー(Khajuraho)の中継地、ジャンシー(Jansi)に向かう列車を待つ。駅の窓口では当日の指定席は取れなかったので、昨日の経験を活かして乗車してから車掌を見つけて交渉し、ボッスの指定席に座ることができた。

 夜遅く、列車はジャンシー(Jansi)駅に着いた。危うく乗り過ごすところを、近くに座った人が教えてくれた。駅前は町の中心から離れていて、商店街もホテルらしい建物も見当たらない。仕方なくオートリキシャーに乗ってホテルの案内を頼んだところ、案内されたホテルは最悪で、150Rsでも高い。しかし、これから翌朝の5時までを過ごすだけ、また探して時間を失いたくないので我慢する。部屋は狭く、暗くてよくわからないがあまり清潔でもなさそうだ。まるで留置場に入れられたような気分になった。給湯器も壊れていたので、水をかぶって体を流す。しかし、今朝ボーパールのホテルの前の空き地で、朝の冷たい空気の中、井戸水を汲み体を洗っていた若者たちに比べれば贅沢だろう。
ボパールからサンチー 車窓
サンチーの仏塔
サンチー仏塔・石門
サンチー 石門欄干の彫刻
サンチー遺跡サンチー 石門の彫刻
サンチー遺跡
ボパール駅



カジュラホー寺院群~ベナレスー(ガンジス河)へ






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