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使命‥心及ぶ限りの命のため、わたしにできる命の使い方。 Me Can Do Something ‥       | ご質問・ご意見はこちら |

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 パガンの仏塔 ビルマ(ミャンマー)1986 Jul/6~12 #Ⅱ

#Ⅰ 1日目  2日目(タイ)  2日目(ビルマ)  3日目    |    #Ⅱ 4日目  5日目    |    #Ⅲ 6日目  7日目
     

4日目 ラングーンからマンダレーへ

     
ラングーン近郊 朝の集落 7月9日 水曜日
 朝5時半にタマダホテルをチックアウト、外は明るくなり始めていた。ホテルのボーイがバッグを持ってくれて、すぐ目と鼻の先にあるラングーン駅への坂道を下って行く。

 昨夜遅くスコールがあった。空は既に晴れているが、道は湿り水溜りが所々に残っている。湯気の様な朝霧が立ちこめて、象牙色の駅の建物やまだ暗い街のたたずまいをソフトフォーカスに浮かびあがらせている。きのうの駅でのシーンがすでに夢の様に想われるし、今また汽車の乗ろうとしてその同じ駅に向かい黎明の中を歩いている。また夢のようだ。

 熱っぽい感じは無くなったものの、腹はまだ痛い。切符はアッパークラスを買っておいた。冷房はないが、シートは大きくてクッションも有り、マンダレーまでの14時間の旅には助かりそうだ。この客車は私か生まれた時よりずっと以前から走り続けているのだろう。信じられないぐらい修理を重ね大切に使っている。

 男一人と女性二人の若いイタリア人の3人が、同じボックスの席を占めた。一人の女性が片言の英語を話す程度だったので、かえって列車の旅の間、会話に気を使わずに済んだ。
 
 
 6時きっかり、「ガタンッ!」連結器の音とともにディーゼルはゆっくりと重そうに動き出した。痺れるような快感が体を走った。鉄道の旅がスタートした。軍服姿の乗客が、一つ先のボックスにいた。昨日のことがあるので、まずいかとも思ったが、沿線の人々の暮らしぶりを目の当たりにして、辛抱たまらずカメラを取り出して写真を撮り始めた。同じ席のイタリア人の女性も、ヤシカを出してシヤッターを切っている。

 ラングーン駅を離れると、すぐ辺りはデルタの世界になっていた。泥水はいたる所に満ちて、椰子の葉で葺いた高床式の簡素な家が疎らに並んでいる。椰子の林に覆われた集落はまだ薄暗く陰鬱な印象を与えている。自分がここに住むことを想像するだけで腰が引ける想いを感じるが、そんな私を笑うように土手の上であるいは泥水の中で、子供達は朝早くから元気に遊んでいる。

 列車はラングーン近郊を抜け、一昨日空から眺望した広大なイラワジデルタのただ中を走りはしめた。目の届く限りの地上は、圧倒的な泥水でことごとく覆い尽くされている。田の形に定まった形はなく、畔の区切りも細くともすれば途切れがち。蛇行した大小の河が、田や畔を無視してそこら中で氾濫している。あるいは氾濫の中に田圃が有るのか。線路は周囲より一段高く作られ、列車は泥の海の浮き橋を行く如くだ。

 いつの間にか鼠色の雲が厚く広がり、霧のような雨が降り始めていた。水牛を引いて野良仕事の男がいる。水桶を頭に載せて運ぶ女性がいる。時々小さな集落を通りすぎる。村の中もほとんど水に浸っている。集落の小道を柿色の衣の憎が托鉢に歩く。緑のロンジーの子供達が学校に向かう。集落には必ず仏塔パゴダがる。

 何時間も同じようなデルタの氾濫原が続く。同じような小さな集落と質素な高床式の家々。そして同じように快活な子供達の笑顔。


イラワジデルタの氾濫原 マンダレーへ 朝のプラットフォーム マンダレーへ 寺院と幼い僧侶
 
 
いかにもいたずら小僧たち素焼きの水がめを頭にのせて水を売る子供たち  昼頃には田圃ばかりの景色から、畑も混じるようになってきた。線路の傍らを街道が走り、馬車が通る、牛車が行く、こぼれ落ちそうに荷を山積みにした旧式のトラックが埃を立てる、ペンキは剥げてタイヤも外れそうなボロボロのバスの、乗車口や屋根、リヤバンパーにも人が溢れしがみついて走っている。

 駅に停る。そんな時はプラットホームも列車の中も物売りでごった返す。売り子ほとんどが8才から12・3才位の子供達。品物を頭の上に載せ、客車の窓から窓を売り歩いて回る。バナナ、スターフルーツやランブータンなどの果物、ちまきのような食べ物、葉巻や噛みタバコのキンマ、おこし風の菓子などを商っている。重そうな素焼きの瓶を頭に載せ、蓋にホーローのコップを置いて売り声を掛けている。水を売っているのだ。客は小銭を払い、窓から身を乗り出して瓶の蓋を開け、自分ですくって飲んでいる。

 生水は恐いので、痩せっぽちの女の子からお茶を買う。小銭が無くて20チャ卜紙幣を出したら、一騒ぎになってしまった。彼等の売り上げでは、渡したお金の釣りがない。子供達が大勢集まって来る。当の女の子は大きなヤカンを抱えて困惑するばかり。一人の活発な男の子が、走り回ってお釣りを掻き集めてくれた。

 女の子は美人が多い。日焼けから肌を守る為に、頬や額に黄色い木の汁(タナカ)を塗っている。初めは奇異に思ったが、見慣れてくると、その塗り方に、一人一人のおしゃれの意識があるようだ。




 
 いくつも駅を過ぎ、太陽が今日の厳しい日課を了えて西に傾く頃、ビルマ内陸の乾燥地帯に入ってきた。所々にサボテンが生えている。マンダレーは近い。

 すっかり日が暮れてから程無く、列車は町に入った。市街であっても家々の明かりは誠に乏しく暗く、夜の闇に覆われている。8時、列車はマンダレー駅にゆっくりと滑り込んだ。

 なんの予約もしていないし、不安な気持ちでプラットホーム降りると、すかさずビルマ人の若者に呼び止められた。
「どこへ行く。」
「ミヤマンダレーホテルに行こうと思っている。」
「トライショー、3チャドでどうだ。」

 彼のトライショー(三輪人力自転車)まで、けっこう歩かされた。ミヤマンダレーホテルは満室のためしかたなく、少し高いが近くにあるマンダレーホテルへ。15米ドル。トライショーのボボ君と、朝9時の約束をして別れた。料金の3チャットはまだ払っていない。


乾燥地帯 マンダレーはもうすぐだ
 
 

5日目 マンダレー

     

7月10日 水曜日

 7時20分起床。体調は戻ってきたけれど、まだ眠りは浅い。
 8時にホテルの中ある、ツーリストバーマのオフィースが開いた。恐れていた通りラングーンに戻る航空券は、飛行機の出発地パガンまで行かないと手に入らないし、ここでは予約もできない。

「ビッグリスクですね。」
 と、担当官の女の人も真顔で心配してくれる。どうしよう。
「ツーリスト用のチャーター機だからチャンスは有りますが・・・。」
 ここまで来たんだ、何とかなるだろう。明朝4時発のパガン行きバスを予約だけ頼んで、オフィースを出た。

 トライショーのボボ君との約束の9時には、まだ少し時間が有った。ホテルの前庭のピンクの花に目をやりながら、のんびりと歩いて行くと、すでにボボが来ていて、門の鉄柵越しこちらを覗いて笑いかけている。トライショーで一日案内して貰うと100チャット約2400円といっても闇レート換算で600円だ。半日コースを60チャットで頼むことも出来る。夕陽が美しいというマンダレーヒルヘ行くのは午後にして、午前中は街の中を巡る事にした。
 
 ボボが示したコース案内を真面目に見なかったけど、どんな所を案内してくれるのだろうか。貸してくれた日傘を握り、舗装の無い埃っぽい道をゴトゴト揺られて街の辻から辻を行く。目に映るひとこまひとこまが楽しくて、気分がとてもいい。

 そんな気分に浸っていると、ホボがいきなり車を止めた。街のどこにも並んでいる、高床式の質素な家の前だ。階下の縁台に、愁いを含む美しく澄んだ瞳の少女が座り、好奇心に満ちた眼差しで、こちらを見ている。彼女の笑顔に、少しうろたえた。

 靴を脱ぎ、階段を上ると、同年齢か少し年下の少女たち、12才から15才位だろうか、4~5人が、木枠で四方を張った大きな布を囲み、繊細な図柄の刺繍をしている。私が靴下を履いたまま上がり込んだものだから、それが珍しいのか、隣の棟の少女たちまで集まってきて、足元を指さしてクスクス笑いあっている。いまさら脱ぐのもかえって恥ずかしいから英語で「おかしいかい?」と言ってみたが、通じるはずもない。階下の縁台にいたあの少女も上がってきて、別の布枠の前に座り、針を通し始めた。カメラを向けると、顔を赤らめて俯いた眼差しが、その後しばらく脳裏から離れなかった。

 路地裏に、椰子で葺いた屋根を載せ、四本柱の狭い作業場があった、贅肉のまるで無い、引き締まった体の若者が、土間に据えた大きな石の上に、何枚にも束ねた油紙を据え、長柄のハンマーを大きく振りかぶって打っている。この暑さの中で、休み無く8時間以上も作業が続くと言う。油紙に純金を挟み、金箔を創っているのだ。出来た金箔は近くの店で売っている。ボボが声を掛けると、奥からまだ幼さの残った女の子が二人走り出て来て、できた金箔をを見せてくれた。この子達も、ここに住み込みで働いている様だ。寺院や仏像に金箔を貼りつけるのは、自分ではパゴダを建立できない、庶民の供養の形だという。そんな庶民のエネルギーを、次に訪れたシェチーミンパゴダで目の当たりにした。
マンダレー 刺繍をする子供達2
マンダレー 刺繍をする子供達2金箔づくりの若者
 
 
車夫と友人の若い僧侶  トライショーは乳白色の石造りの寺院の、これも白い石造りの門の前に止まった。門から入ったところで、先を歩いていたボボが、一人の若い僧ととても親しげに肩を叩き合っている。ボボと同じ村の出身で、幼なじみと言うその僧は、大きく涼げな瞳と、伸びやかな眉、鼻筋のとおったハンサムな若者だ。柔らかな物腰の、いかにもビルマの憎らしいその青年が、寺院を案内してくれた。

 シェチーミンハゴダの中央の仏塔には、巨大な仏陀の坐像が安置されていた。写真撮影は禁止だ。参詣の人々が貼り付けた金箔は、髪飾りから肩の衣、結跏趺坐に組んだ膝から腰、印を結び足の前に垂らされた掌に厚く重なって、仏像全体を膨れさせ、圧倒する生命力で輝いている。その黄金の像を、後ろの壁に設置されたネオンのイルミネーションが飾る。初めそのネオンを見た時は、強い違和感を覚えたけれど、考えてみれば、我が国の不動明王の火焔も、観世音菩薩の光背も、仏像の身を包む全ての装飾は、物の形をサインとして、見る人に荘厳や畏怖の印象を与えようとしているのだろう。それを表現するのに、石とか木とか銅とかに素材を限らねばならぬ筈は無く、燭台の光は勿論、ネオンサインだってレーザー光ディスプレーだって良い訳で、疑問を感じるのは我々の偏見にすぎないはずだ、とは思うが‥。

 寺院を辞する間際、ずっと案内してくれた物静かな若い僧が、小さな仏像の前に生けられた真っ赤な花を一輪たおって私の胸にさしてくれた。
マンダレー 幼い僧 マンダレー 街角の祈祷 マンダレー 街角の祈祷 裕福な家族
 
 
 市街地を少しはずれて走る。路面のあちこちに、牛車の落とす牛糞がかたまって落ちている。それが強い太陽の下で乾燥し、道に広がり、行き交うトラックやオートバイの車輪で、土埃のように巻き上がっている。その牛糞の黄色い靄を衝いて、私達のトライショーが往く。

 着いたのはイラワジ(現エーヤワディー川)河岸の集落だ。ボボが先に立って土手を歩いて行く。

 もしマレーシアに行ったことが無く、タイのバンコックの町も見ず、またラングーンから、あの骨董品の様な鉄道でマンダレーへ来たのでなかったなら、あるいは東京からいきなりここに連れて来られたのなら、目の前の状況が現実の事だと、すぐには理解できないだろう。ここは貧しいビルマの中の、更に貧しいスラムだ。ここに在る家は、不揃いな角材を柱に建てて、ヤシの葉かあるいは5センチぐらいの幅に切った、竹板の格子で屋根を葺き、壁は大雑把に編んだ隙間だらけの竹の格子の、いかにも簡単な小屋ばかりだ。大きさも高さも、皆まちまちに庇を重ねて密集した、高床式のそれらのバラックは、皆わざとのたようにひどく歪んでいる。一間ほどの広さで、屋根までの高さが1メートル程しか無く、そこに7・8人が折り重なり合う様に住んでいた小屋も有った。壁も無く、大きな布を垂らしただけのバラックの、その布が風でめくれたなびき、中に幼児の姿が見えた。

 川岸では、女性達が竹の筏の上で洗濯をしていた。その傍らを、まっ黒い大きな水牛が何頭も川に浸かり、土手を歩いている。筏の上に、この集落の中では、そこでしか見なかった厠があった。炊事の支度も、この筏の上でするのだろうか。

 そんな言わば掃き溜めに、服装は粗末だが貧しさ故の神秘的な陰りを秘めた、黒い瞳の美しい娘達を見かける。いつかビルマが鎖国を解いて、観光を自由化するときが来るだろう。すると心無い団体ツアーのものどもが押し寄せ、娘達は春をひさいで家族を助ける道を選ぶことになるのではないか。そんな寂しい想像が脳裏をよぎった。

 子供達は元気だ。他の世界を知らない小さな彼等。たとえ知っていたとしてもそんな事に関り無く夢中で遊んでいる。小さな児が前も見ずに、布で作ったボールを追いかけ来て私にぶつかった。見上げると、見慣れぬ異邦人の顔がそこに有ったので、びっくりして飛びのき、一瞬不思議そうな顔をしたが、また仲間の所へ一目散に駆けて行き、遊びに熱中してる。詰まつていた息がふっと抜けた。



マンダレー 河川敷内の小屋 マンダレー イラワジ川中洲の小屋
マンダレー イラワジ川の生活 マンダレー スラムの小屋 マンダレー イラワジ川スラムの水牛
 
 
マンダレー 機織り姫マンダレー 土間で糸をつぐむ少女


 象牙細工の加工場と、ビルマ刺繍の店でいくつかの土産を仕入れ、ボボのガールフレンドの中華料理店で昼食を採る。一旦ホテルに戻り一休みの後、3時45分に午後のコースをスタート。

 トライショーは、王宮の東の堀を左手に見ながら進んで行く。行く手はるか前方、北の丘の稜線に回廊が廻らされている。それがマンダレーヒルだ。

 掘りとは反対側、柵で囲んだ広々とした敷地に、教室の様な建物が幾棟か建てられている。ビルマの民族芸能を教える国営の学校だった。ボボに案内され、その中の一つの稽古場に近づいて行く。吹き抜けの窓からは、ゆったりとしたビルマの音曲のリズムが洩れている。少女達の舞い姿、揃って伸ばされた数本のしなやかな上腕が垣間見えていた。

 靴を脱ぎ、今度は靴下もしっかり脱いで、磨き上げた板敷きの稽古場の、隅の椅子に案内され、腰を掛けた。若い視線が一斉にこちらに向き、微かにどよめいて、また元のレッスンに戻る。中学生位の娘達十数人と、少年も数人交じっている。指導をしているのは、背筋がすっと伸び、引き締まった体で、優しいまなざしの中に凛とした張りを感じさせる、昔はたぶん舞踏の名手であろう婦人だ。

 観客を得て稽古に熱が入ったように見えたのは、私の思い込みだろうか。少女の一人一人が、自分を精一杯表現しようとしている。未成熟な肢体、稚拙さの残る舞い。師匠と乙女らの、民族文化伝承の、厳しくも華やいだ世界に、このままいつまでも浸っていたかった。さわやかな快さに、写真を撮ることも意識に上らなかった。

 織物工場へ。
 ビルマ王室用の高級織物チョージチェイク織りは、手の小さな少女達によって織られていく。数十人の少女達が、二人一組で機織を前にしている。作業場の奥、暗い一隅で年少の子供たちが、土間にじかに座り糸を紡いでいる。投げ出された裸足の黒い足が、痩せて細かった。私にも、同じ年ごろの子供がいる。
 
 
マンダレー 午後の水くみ マンダレー 蹴鞠に興じる若者
 マンダレーヒルの麓の一画を、縦横に真っ直ぐ並べられた、純白のパゴダの一群が占めていた。西に傾いた太陽の光が、730あるというパゴダの一つ一つに、形の揃った影を生み、コントラストの強い文様を描き出している。空は青く濃さを増して、他に訪れる人も見られない、そのクドードォパゴダは、力強い静けさに満ちていた。  マンダレー クドードォパゴダ前で マンダレー クドードォパゴダ
マンダレー クドードォパゴダ2 マンダレー クドードォパゴダの仏像
 
マンダレーヒルからクドードォパゴダを望むマンダレーヒル 休憩所  トライショーを降り、靴を脱いで一人マンダレーヒルを登って行く。ここも人は少ない。思いの外丘は高く道は長い。そこが頂上だ、やっと着く、と思って裏切られた事三度、もう少しという所で腹の調子がおかしくになってきた。まづい、ここまで来たんだし、とにかく一番上まで急げ。頂上のパゴダに着いてはみたけど、もうその頃には参詣も景色もあったものでは無い。頭の中は腹のことででいっぱい。下までもつだろうか‥。

 我慢がほとんど限界に近づいた頃、運よく坂の途中にトタン造りのトイレを見付け、飛び込んだ。トイレと言っても床に丸く穴を開けてあるだけで、下はコンクリートを打たれた丘の斜面。トタンの戸は閉まらない。ここから先の事は書きたくない。腹が立った。無性に腹が立って犬に怒鳴った。よほど飢えているんだろうが何て事だ。

 やっと落ち着きを取り戻し、坂さらにを少し降りた先に、石畳の広場かあった。丘を登る長い参道の、所々に設けられた休息所の一つ。そこは視界が開けていた。石づくりの椅子に足を投げ出して体を休ませながら、遥かな山並みに沿って、視線をゆっくりと移していく。丘を吹き上げてくる風が快い。日没にはまだしばらく有る。雲が増えていて奇麗な夕陽は望めそうにない。イラワジ河の今は灰色に見える流れが、幾筋にも分かれてはまた集って、悠々と彼方まで続いている。時間はゆっくりとながれている。

 明日はパガンヘ。
マンダレーヒル 休憩所にいた幼女 マンダレーヒルからはるかに望むイラワジ川 マンダレーヒル 山門と参道 散在するパゴダ
 


次はいよいよパガンへ







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